アウシュビッツへの旅

ずっと長くホロコーストということについて考えてきました。
なぜホロコーストということが起こるのか。
ひとはなぜそんなことができるのか。

アウシュビッツはずっと行かなければ、と思っていた場所です。
そのタイミングがこの時期と重なりました。
いつも思うんですが、場所に行けばすぐにわかることが、
まことしやかな嘘で歪められるのはどうしてでしょうか。
辺野古の座り込みをしているひとたちはお金をもらっているそうですが、
わたしはそんなのは見たことないですし、
座り込んで運ばれてもお金なんて貰ったことはもちろんない。
そもそもどう考えてもそんなお金はどこにもありません。
皆、手弁当。
警備会社のほうはだいぶ、お金をもらっていたみたいですけどね。
しかもそれはピンハネされて現場のひとにはいかなかったみたいですけどね。
座り込んでいるひとたちは、
せめてウチナンチューの警備会社に発注してほしいよ、
と思いやりを見せていました。

アウシュビッツは、年間200万人超のひとたちが訪れる場所です。
しかしだいたいの場合、
バス等のツアーか自家用車で行くのではないでしょうか。
わたしたちはクラクフから自力で路線バスを使っていく手段を使いました。
そういうひとは、たぶんとても少ないですが、
早朝出発し、霧のかかる道を走っていると、
運ばれていったたくさんのひとの情景を
追いかけているような心地になりました。

日本語ツアーもあるんですが、
うまく見つけることができず、
わたしたちは英語ツアーに参加しました。
コースは3時間と6時間がありますが、
行ける機会があったら迷わず6時間にするべきだと思います。
というのも、アウシュビッツは第一から第三まであり、
第三はもうなくなっていて、
今見ることができるのは第一と第二。
3時間だとおそらく第一しか見る時間がありません。
もしくはすごく駆け足か。
しかし第二収容所、ビルケナウを体験しないと、
行った意味がない、と言えるとわたしは思いました。
ガイドさんはとても丁寧で、しかも個別性が尊重されていて、
それぞれの道筋を持っています。
なので、6時間でもまったく時間は持て余しません。

わたしたちのガイドさんはたぶんポーランドの方でしたが、
巻き舌でそのうえとても早口だったので、
わたしの能力ではかなりの部分聞き逃してしまいました。
それでも彼女と歩くアウシュビッツは特別な体験でした。
怒り、悲しみ、そしてものすごく勉強してらっしゃることが、
その情報量から伝わってきます。
わたしのアウシュビッツは、
彼女の眼差しを通して観たアウシュビッツでした。
出会うガイドさんによって一期一会のこの場所がある。
そんなふうに思いました。

ここが第一収容所アウシュビッツ。
ほんとうは、オシフィエンチムという地名です。
ドイツ人には、この言葉がアウシュビッツと聞こえたので、
この名前になってしまったということです。
このくらいの人数がひとりのガイドさんについて回ります。
ガイドツアーは現地でも申し込めますが、
予約しておくと待ち時間がありません。
ハイシーズンは予約なしだと
ガイドツアーはできないかもしれませんので、予約をお勧めします。
公式サイトから申し込めますが、
そうなるとわたしたちのように自力で博物館の入口まで
たどりつかないとなりません。
割高ですがクラクフやワルシャワからもツアーが出ているらしいので、
利用するのも手だと思います。

これはとても有名ですね。
義足や義手、松葉づえ。
連行されても労働ができないと判断されたひとは、
そのまま家族からも引き離され、
処刑されました。
しかし、こういったものは利用価値があったので、
引きはがされるわけです。

女性の髪の毛がうずたかく積まれた展示もあります。
鬘として利用するために、長い髪を切られるのです。
ご遺体の一部ということでここだけは撮影禁止です。
知ってはいても、
やはりどうにもならない感情に浸されます。

これは食器たち。
すぐに帰るつもりですからこういったものをたくさん
持ってきていました。
女性だからでしょうか。
生活の器物には胸が潰れる思いがします。

これは鞄。

靴の展示を見る田島さん。

こういったもののなかで価値があるものを貯蔵する倉庫を
カナダ倉庫と言ったそうです。
ガイドさんの説明には、
何度もカナダという言葉が出てくるので、
なんだろうと途中で調べましたが、
なんとなくお金持ちのイメージがあったから、
捕虜たちから奪ったものを保管した場所をそう呼んだそうです。
その発想が残酷すぎます。

これは殺された人たちを記録してある本。
その質量、消化しきれないほどの多さを、
触り体感できるようになっています。

ここまでで3時間。軽く食事をして、
(売店もレストランもあります)
シャトルバスでビルケナウに行きます。

これは有名な引き込み線。
ここに到着するたくさんの捕虜の方たちの姿は、
いろいろな映画で観ることができます。
わたしもアウシュビッツ関連の映画は相当数見ているので、
自分の記憶と一体化しており、
なんともいえない気持ちになりました。

ここか、と。

ビルケナウの奥地に小さな建物があります。
ここは、
着替えという名目で、金目の服を奪われ、
シャワーを浴びると言われて、
ガスで殺され、
焼却された場所です。
わたしたちは、その捕虜の方が辿った順番で歩きます。
とても機能的でとても整然としています。
効率的で機能的なドイツらしい構造です。
その構造を捕虜として味わったとき、
スッと真ん中が冷える感覚がありました。
殺したひとたちの意思の強さが伝わってきた。
そして、殺されたひとたちは、
死の瞬間まで、しらなかった。
自分がここで死ぬということを。

ここが焼却炉。

ここがガス室のあとです。

最後の部屋に捕虜の方たちが残した家族や結婚式の写真が
飾られていました。

これでも虐殺も強制連行もなかったと言うのでしょうか。
見てから言ってください。
見ても、言うのかもしれませんが。

チェルノブイリもそうですが、
ひとの言葉がなければ、
わたしたちはここでなにがあったかを知ることはできません。
そこをチェルノブイリにするのは、
そこをアウシュビッツ・ビルケナウにするのは、
わたしたちの想像力と、知識です。

たくさんの文学、たくさんの映画、
演劇、写真。記憶。記憶。記憶。

心を尽くして残してくれているこの場所を。
穢れの記憶の場所を、未来の時間のために
残してくれているのです。
これ以上、汚してどうする。
遠い日本から、傷つきもしない場所から。
許せない。
そう思います。

国立チェルノブイリ博物館

翌日は国立チェルノブイリ博物館に行きました。
そんなに大きな博物館ではありませんが、
日本語のオーディオガイドがあり、
ひとつひとつの展示に丁寧な説明がつきます。
なので行くなら2時間~3時間かけたほうがいいと思います。

プラクティカルな記録ももちろんたくさんあるのですが、
個人のライフヒストリーに関わるメモリアルな展示が中心です。
館長さんのインタビューを読んだことがありますが、
エモーショナルになることを敢えて避けない、
と言ってらっしゃいました。

チェルノブイリに関わったたくさんの方の写真があり、
技術者、消防士、軍人等、それぞれの立場からの
チェルノブイリの記録を見ることができます。
彼らの家族写真、残した文字、小物、
そういったものが、とにかくたくさん展示されていました。
写真に赤いマークがついているのが亡くなった方です。
ひとりひとりの人生の話を聞きながら展示を巡ります。

すべてを丁寧に省かず見るのには、
かなり精神力が要ります。
ひとつは、ひとりひとりが生きていたひとなんだ、
というあたりまえの実感が押し寄せてくること。
それ以上に、この場所を作り、守り、
伝えようとすることの気迫に、
見る側も応える必要があるからなんだと思います。

昨日行ったときは銀の金属に覆われていた4号炉です。

最後の展示室は原子炉内部を模しています。
わたしたちは浜岡原発でも
原寸大の原子炉の模型を体験していますが、
そのときとはまったく違った感覚を味わいました。

宗教的なアイコンも同時に飾られていたりして、
ここが祈りの場であることが明確にわかります。

こどもたちが、奥に車座になっているのが見えるでしょうか。
彼らは先生の解説でものすごく丁寧に展示を見てきたあとです。
チェルノブイリ事故のドキュメンタリを見ています。
子供にはわからないから、などという曖昧な姿勢は
ここにはありません。
死んだひとたちがいることも、
いまもなお後遺症に苦しむ人たちがあることも、
原子力というのがとてもリスクのある手段だということも、
しっかりと伝えられています。
隠すことがなにもない。

天井の光は、世界各地で今もなお稼働する原発なのだそうです。
あのあたりが日本かな、という場所が、
煌々と光を集めていました。

この国旗は、この博物館を支援してくれた国の旗だそうです。
そのなかで、とくに日本への感謝が厚く語られていました。

わたしたちは、東海村に行き、浜岡にも行っているので、
2011年を経てなお、
原子力は明るい未来エネルギーなんだ、という展示を
たくさん見てきました。
そんなわたしたちにとって、ここの展示のあり方は、
まさに、打ちのめされるものでした。

リスクを、罪を、隠さないという姿勢を、
それを若い世代が引き継いでいるということを、
引き継ぐ努力を惜しんでいないということを、
目の当たりにして、
しばらく立ち上がれませんでした。

恥ずかしい。ただ。恥ずかしい。

日本もたとえば原爆資料館などはそういう作りになっていますが、
外国からされた厄災と、
自身の国の産業が引き起こした事故では位相が違う話です。

このチェルノブイリ博物館は入場料が約200円。
国立とは言え国からは働くひとの人件費しか出ていないけれど、
寄付を募り、安価であることを自らに課しています。

驚くべきことに、ここはキエフの若者たちのデートスポットあり、
リピーターも多いということです。
チェルノブイリツアーもご夫婦や恋人同士での参加が多かったですし、
ここでも若いカップルが身を寄せて展示を見る姿がありました。
生きることを、生きるスタンスを、
シェアしているんだな、と思います。

福島にはいま廃炉博物館が計画されていると聞いたことがあります。
嘘のない、率直なものになるよう祈るしかありません。

チェルノブイリへの旅

昔、廃虚が好きでした。
いわゆる廃虚マニアです。
日本でいちばん行きたい場所は軍艦島、といつも言っていました。
それが変わったのは、ほかならぬ軍艦島とやはり長崎の池島に行ってからです。
このふたつは元炭鉱です。
そこに人が生きていたこと。
廃虚になるには、産業の衰退やそれ以外のいろいろな事情があることに
思い至りました。
なのでそれ以降は、廃虚には理由がある。
その理由を知らないと行く意味がないな、と考えるようになりました。
そこに住んだひとがいて、捨てられた意味がある、
と気づいてから、廃虚が好き、なんてかんたんに言えなくなりました。

そのときのことは、ココココに書いております。

チェルノブイリのゾーンと言われる場所に入れるようになって
最初は限られた研究者やジャーナリスト向けのツアーが入り、
いまは、数社の旅行会社が参画して望めば誰でも行けるようになっています。
ゾーンを舞台にしたゲームがあり、そのマニアのひと、
廃虚マニアのひと、
そしてわたしのようにチェルノブイリだから行ってみたいというひとが
年間に約5万人訪れるそうです。
ここやアウシュビッツ、日本だと水俣・福島などを
訪れることをダークツーリズムというんですね。
評論家の方がやっているフクシマを観光地化にする試み等、
わたしはまったく否定しないですが、
なんだかちょっと不得意な言葉です。
カテゴライズされるのがなんであれ苦手だからでしょうか。
ダーク、という強制力も苦手、観光と嘯くのも苦手。
自意識過剰なんだと思います。
でも行けるものならやはり行かなければ、ということで、
ツアーに参加して行ってまいりました。

ゲートを入り、犠牲になった方のモニュメント、
廃虚化した幼稚園、
金属のドームで覆われた4号機、
いまも線量が高いという赤い森、
そして、一日にして廃虚になった町プリピャチを回ります。
英語のツアーだったので、すべての言葉が理解できたとは
とても思えませんが、
丁寧なガイドさんで、
洗練され、整理されたツアーを体験しました。

これは入口のところにあるモニュメント。

ガイガーカウンターがレンタルできます。

これは幼稚園の庭に落ちていた人形。
こういったことは、ほとんどの場合、
後々のひとが演出で飾ったものらしいです。
そうですよね。
自然にこうはならない。
ひとは、罪深いなあ、と思います。
そうやって演出された空間で、
どこを撮っても絵になる。そういう瞬間が多々ありました。

幼稚園の内部。と田島さん。

お昼ご飯はゾーン内のレストランで食べます。
ゾーンのなかでごはんを食べる。
もちろん安全なごはんですが、
その瞬間がいちばん、身体感覚が発動した気がします。
昔、ドイツのドキュメンタリだったように記憶していますが、
チェルノブイリを訪ねる記録があって、
ゾーンに戻ってきたひとたちをサマショールというのですが、
そのひとりを訪ね、出してくれた食事を規則だから、
という理由で逡巡の末食べないというシーンがありました。
出したおばあさんの悲しい瞳が焼き付きます。
いまよりずっと線量が高かった時代の話です。
そのイメージとか、
辺見庸さんの「もの食うひとびと」の鮮烈さとか故かもしれません。

これが4号炉。この銀色の覆いができたことで、
線量が劇的に減り、
ツアー客が増えたのだそうです。
無人なカンジで撮れていますが、
ここにはすごくたくさんひとがいます。
そして幻想を抱いてほしくないのですが、
チェルノブイリの廃炉はまだまったく終わっていないのです。
覆っているだけ。

事故後もとなりの1号炉から3号炉までは、
発電を行っていました。
国際社会からの要請で、発電が止まったのは、2000年のことです。
ウクライナでは、
原子力に反対するひとたちのあいだでさえ
過渡期的には原子力使用がリアル、という考えがあるようです。

そして廃虚の街、プリピャチです。
これはとても賑わっていたカフェ。
食券を売る自販機の前で説明してくれるガイドさん。

常にその場所と過去の写真を対比しながら説明してくれます。

おそらく世界でいちばん有名な観覧車。
この遊園地は開業間近で、
稼働しないまま住民たちが避難しました。

市民センターのような場所の飛び込み台。
ここで練習していた子供たちが、
なにかの大会で賞を取った、
というようなことを言っていた気がします。

元小学校です。
ガスマスクがうずたかく積まれていることで有名です。
田島さんの後方に広がっているのがガスマスク。
この部屋もいろんな意味で演出されていましたが、
ガスマスクはじっさいにこの学校の残留物のようです。
原発対策というより、
核戦争対策だ、とのことでしたが、ほんとうなんでしょうか。
ペレストロイカ後とは言え、
まだまだ冷戦時代を引きずっていた時代の事故です。
いまのロシアの状況とはまた違う状況だったのだと思いますが、
小学校にこんなにも大量のガスマスク。
穏便とは、程遠い情景です。

ガイドさんの口から何度もソビエトシステム、という言葉が出ました。
ウクライナはいまは独立していますから、
ソビエト時代についていろいろな思いがあるのだと思いました。
言葉ができたらもっともっと話したいことがたくさんあったのに。

観光地化された、といわれるチェルノブイリですが、
わたしたちを案内してくれたガイドさんは、
プロフェッショナルとして、
いわゆる日本の観光ガイドとは一線を画する
きちんとした案内をしてくれました。

最後に行ったここは、ソビエト時代のレーダーだそうです。
写真ではわからないけど超巨大です。
あまりに巨大で実現化しないうちに事故が起こった、とのことですが、
いったいこれでソビエトはなにをやっていたのでしょうか。
軍事大国としてのソビエトに思いを馳せざるえない施設でした。

どこに行っても思うのですが、
感性が乏しいのか、
人生が変わるほどのショックというのは受けないです。
ああ。ここに。ほんとにあったんだなと。
チェルノブイリ事故は、ほんとにあったんだと。
ひとがいなくなった街を歩けば、
それは、悲しみのようなものには浸されます。
けれど、思った以上に淡々とわたしは歩きました。
悲しみを深くするのも違うし、
体温が上がるような興奮も違う、
カンタンに衝撃を受けたりするのもなんだかそぐわない。
すごく醒めていました。
無理にそうしたわけではなく、
そうなってしまう。
ショックなんて受けなくても、
ここに来たというだけでどうせ人生は変わってしまうのだから、
とにかく平熱で見ればいい、見るべきだ。
そう思い歩きました。

行けるんです。個人旅行でも。
もし必要なときは連絡ください。
行き方くらいは、教えられます。
それくらいしか、教えられないけれど。

革命の街を歩く-サンクトペテルグ-

古都サンクトペテルブルクです。
この街は、サンクト=ペテルブルグというのが昔からの名前ですが、
ロシア革命のころは、ペトログラード、
革命成就後は、レーニンから名前を取って レニングラード。
ペレストロイカ後、またサンクト=ペテルブルグに戻っています。
なので、「機械と音楽」の舞台となったころは、ペテログラード、
という名前でした。
貧しい農家に生まれたイヴァンは、
革命当時、家計の助けにと、この街に出稼ぎに来ていました。
「機械と音楽」は15歳のイヴァンが革命を目撃する十月革命の夜から始まります。

ここが、レーニン率いるボルシェビキが革命本部を置いたという
スモーリヌイ修道院。
最初の写真が内部ですが、とても美しい。
モスクワで言うと聖ワシリー寺院にあたる、
この街のひとたちにとっては重要な寺院なのだそうです。
市街地からはやや離れた場所にあり、
最寄りの地下鉄駅からでも30分近く歩きます。
革命の夜、矢も楯もたまらず、
彼の住むあたりからここまで走ってきたイヴァンのことを思いました。

イヴァンが住んでいたのはここらへん、と設定したのは、
センナヤ広場付近。
市場があり、商店が立ち並びます。
ドフトエフスキーが晩年住んだ場所があり、
ラスコーリニコフの家も、
ソーニャの家もこのあたりに設定されています。

これがドフトエフスキーが晩年住んだ家。
このあたりを歩きながら、
こういうところにオリガと身を潜めたのかな、
なんて話しました。
オリガは、今回の作品中、唯一、想像上の人物。
モデルでもある きなりちゃんが演じてくれます。
人気インスタグラマーでもあるらしく、
可愛すぎるでしょう。
あたりまえなんですが、チラシ撮影のポージングが
ただごとではなかったです。
プロって凄いね。

あ。話がズレました。

これはソーニャの家。

これはラスコーリニコフの家。
なんだろう。角地だからと言って、こんなに標識。ダサい。
近づくと、

こんなかんじで碑のようなものが埋め込まれてるんですけどね。
とはいえですね。
文学少女の慣れの果てなので、
興奮しました。

ミーハーなのでドフトエフスキーも行ったという
文学カフェでランチ。
ここですね。そこまで高くないけど、
美味しいし、内装も豪華。
シーズン中は観光客でごったがえすそうですが、
わたしたちはほぼひとりじめでした。

そして、ボリシェビキが倒した臨時政府がおかれていたという冬宮。

現在は、エルミタージュ美術館になっているのですが!
モノを知らないので、
冬宮=エルミタージュ、とは思わず、
けっこう入場料高いなー、と思いながら中に入りました。
しばらく見ていて、あれ、これエルミタージュじゃないの?
と思って調べたら、エルミタージュだったという。。。
いや。もちろんエルミタージュは行こうと思ってたんですよ。
でも、広大なので次の日ゆっくり観ようと思っていたのに。
いつのまにか入ってたっていう。。。

でもエルミタージュは、ルネサンス絵画が中心で、
そこまでわたしは興味がない。
かつ、いいものは、ルーブルとウィーンでかなり観てる。
ということでそこまでの執着を感じなかったので、
当時の皇帝(ツァーリ)の豪奢な生活を忍ぶことが中心になりました。

これが有名な階段なんですが、繊細かつ豪華。
すっかり革命家の気持ちに入っている田島さんが、
「こんな生活してるから農民が死ぬんだよ。」
と毒づいていました。

エルミタージュには別館があって、
そこは印象派の絵がたくさん収蔵されています。
いまのわたしは印象派がそこまで好き、ということではないのですが、
田舎に住んでて、家にあった印象派の画集=西洋絵画、
という育ち方をしたので、
やはり特別な気持ちにはなります。
なので別館のほうがずっと気を入れて観ました。
モネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ルソー。
わりと充実のコレクションだと思います。
冬なのもあって空いてますからね。もう一人占め気分で、
満喫できます。
これやっちゃうと、日本の美術展に行く気にならなくなる。
わたしの人生でも印象深い時間として、
オルセーでフェルメールとふたりきりで過ごした数分。
というのがあります。
贅沢、でした。

サンクトペテルブルグではもうひとつ。ロシア美術館に行きました。
ここはアヴァンギャルド絵画が収蔵されています。
モスクワでトレチャコフ休館日の罠に嵌り行きそこねたので、
ここで邂逅することができました。
わたしは東京でロシア・アヴァンギャルド関係の展覧会は、
すべて行っている、と自負しているのですが
田島さんにぜひホンモノを観てほしいと思っていたので
叶ってよかったです。

これはタトリンのコーナー・レリーフ。
そして、

同じくタトリンの
第三インターナショナル記念塔、の映像。
→トレチャコフ行けたらこれの立体が観れた、ハズ。
タトリンの作品は、
革命と芸術という意味でも、
建築家にとっても重要な位置づけとなるものばかりです。
メーリニコフとレオニドフがタトリンの話をするシーンが
あるので、この名前、ちょっと憶えておくと物語が楽しめます。

そしてマレービッチ。

さて、番外編。

nurseryというお芝居で
田島さん演じるルディが持ってた立体パズルはここ。
血の上の教会 です。
皇帝が処刑された場所のうえに建つ教会の前で、
にこやかに笑うマダムカーター。
ある意味ホラー。
とても綺麗な教会なんですが、あの丸い屋根、
作るのタイヘンだったなー、など、
そんなことばかり思ってしまいます。

ここも休館日で中を観ることできず。。。
そして。

美しいアールヌーボー様式で作られた鉄道駅。
ヴィテプフス駅。
利用者以外は入れない雰囲気出てますが、
駅員さんに言うと観ていーよー、みたいなカンジで
通してくれます。
美しかったです。

というわけで、サンクトペテルブルグ。
歴史ある古都です。
美しい街でした。

そしてナイトフライトでわたしたちはウクライナへ。

読んでくれてありがとうございます。
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モスクワを歩く-その他主だったアヴァンギャルド建築-

これは酒巻くんが演じてくれる、
モイセイ・ギンスブルクのドムナムコムフィン。
集合住宅です。
共用できる部分はできるだけ共有化し、個人のスペースを最小化する、
という共産主義の思想にとても忠実に建てられています。

そのため、集合住宅として人気がなくて、近年では廃墟化している、
と聞いていました。
今回、いちばん間に合うだろうか、と心配していた建物ですが、
ロシア・アヴァンギャルド建築を少しでも齧ったひとにとって、
他のどれよりも構成主義建築的と言っていいこの建物は、
たぶんアイドルみたいなもので、
じっさいわたしもどれより先にこの建物に会いに行きました。

近づくと、囲いがしてあって、工事の真っ最中である。
さいしょ、ついに取り壊されているのか、と震えてしまいました。

なにか書いてあるけどロシア語なのでわからない。。。
しかしどうも構造はそのままにリニューアルしているところのようでした。
集合住宅になるのか、なにか別のものに転用されるのか。
ちょうどその瞬間に会えたということで、
劇的な幕開けとなりました。

これは改築中の正面。黄色味かかった色から
白色に塗り替わっている。
その向こうに見えるのは、
スターリンの建築と呼ばれるもので、
エンパイヤステートビルのような塔が特徴です。
スターリンはこのかたちが好きで、
モスクワでギョッとするような巨大で立派な建物に遭遇したら、
ほぼこのスターリンの建築、
セブン・シスターズだと思って間違いありません。

メーリニコフ自邸に近いと思って取ったホテルは、
スターリン建築の外務省ビルのお膝元でもあって、
我々は連日その建物を横目に見ながら、
彼に迫害された建築家や作家たちの足跡を追うということになりました。

予測をはるかに超えて威風堂々。権力を誇示していましたね。
ヨーロッパの年は建築に統一感のある都市が多いですが、
モスクワはいろんな様式の建築が並んでいます。
そのなかでもスターリン建築と、
アヴァンギャルド建築は、
どちらも異形の建築でした。
このいろんな様式が混ざっていること自体が、
ロシアの激動の歴史とリンクしてるんだな、と実感できました。

これはヴェスニン兄弟の、たぶん元は政治犯のためのクラブ
だった場所なんだと思うんですが、いまは映画俳優たちの家
という名前になっています。
間違ってたらゴメンナサイ。
劇場なのかな。。。?
ニキータ・ミハルコフが芸術監督だそうです。
改修の必要が訴えられていましたがいまも月に数度は公演があるようです。
こういうこともっと調べぬいてから行くべきでしたね。。。
ルサコフクラブといい、チャンスを逃しました。
ヴェスニン兄弟の三男、アレクサンドル・ヴェスニンは
イヴァンの才能を見出した生涯の先生でした。
劇中では青山勝さんが演じてくださいます。

これはヴェスニンの作品としていちばん有名なリハチェフ文化宮殿。
宮殿とはいいますが、別にお城ではありません。
文化センター、みたいなカンジでしょうか。
現在は図書館や市民の勉強の場、
そしてバレエ学校などで使っているようです。

美しい螺旋階段。
ここでよくロシア映画とかで見る、
バレエ学校の廊下に小さなバレリーナたちがパーッと集う情景を観ました。
あの中から未来のプリマが登場するんでしょうか。
いわゆるお稽古事、というとは違う光景でした。
その下の階では年配の方々が社交ダンスを習っていました。
ここでは生きて使用されている構成主義建築の
息遣いをいちばん感じることができました。

これはモストルグ・デパート。
今はべネトンが入っています。
構成主義建築に、西洋資本主義の最も成功した一例が。
窓も七色に彩られ、これも時代の流れですね。

これはル・コルビジェが招待されたコンペで勝ち
建てられたツェントロ・ソユーズ。
モスクワの官公庁街にドーンと建っています。
裏手にはコルビジェの像がありました。
ミーハーですが、記念撮影。

嬉しそうですね。

そしてこちらはモダニズム建築ではないのですが、
おそらく、たぶんおそらく、
ブフテマスというイヴァンたちの学校の跡地ではないか、
と思われる場所。
ロシアのサイトをサーフィンして、いまはこんな場所になってるよ、
というのを頼りに探したのでまったくの勘違いかもしれません。
でも、こうイメージに合ってるし、とりあえずここにしよう、
ということでserial number的に決定されたイヴァンの母校です。
今も美術関係の学校が入っているようで、デッサンをする生徒さんを
窓に見つけて、イメージ強化。
ここも工事中でした。面白いのはロシアは工事中の場合、
その建物の元の絵を描いた布で覆われているんです。

これはラジオ・タワー。
シューホフがデザインしたモダニズム建築の始まりを告げた
とも言われる建築物です。
ほんとはこの倍くらいの高さになるはずだったんですが、
予算が足りず、とても可憐な高さで収まっています。
シューホフは出てきませんが、
青年のイヴァンと、生涯の友人(同級生なのは史実ですが、
友人だったのは詩森の創作で真相はわかりません)である
エレーナが、このラジオタワーを見に行くシーンがあります。
才気煥発でマヤコフスキーとも交流があった才女エレーナを
新進気鋭の女優さん、三浦透子ちゃんが演じてくれます。
透子ちゃん。
一度田島さんとシーンを演じてもらったんですが、
積んでるエンジンがケタ違いです。
早く稽古したいし、早くお見せしたい。

これはビル全体が広告になっていたビル。
ロトチェンコやマヤコフスキーの広告が全面に描かれていたそうです。
広告が盛んでマヤコフスキーもクッキーとか紅茶のコピーを
書いたりしてるんですが、
そのお金はどこから出て、だれの収入になっていたんだろうか。
共産主義時代のロシアってまだシステムをわかりきってないので、
今回のためにもう少し調べてみるつもりです。

最後に、物語のラスト出てくるレーニン図書館。
モダニズムが敗退し、また伝統建築が幅を利かせてきた
その象徴として出てきます。
作家としては複雑な気持ちになりますが、
建物としてなにも知らずに見たらとてもカッコよかったのでは、
と思います。

ロシアではこの他、演劇もたくさん見たんですが、
それはあとでまとめて演劇編で書こうと思います。

そして旅行記はようやく革命の街、
サンクトペテルブルクへ。

追記
本日、一般前売り開始です。
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