開発者と俳優が出会った日

相方として田島さん凄いなー、と思うことは多々あるけど、
人に対しての積極性があることにはとくに
いつも助けられている。

稽古が始まったころから取材対象であったコンドーム開発者の方々を
稽古場に呼びましょうか、と何度も言ってくれていたが、
わたしの性格だと、
稽古場職場から遠いし、
申し訳ないし、と思ってしまうので
うーん。どうしようかな、とお茶を濁していた。

しかし、初通しの日。
田島さんからのlineを見てわたしは驚愕した。
「本日、山中さん、稽古場来てくださいます!」

山中さん、というのは、相模ゴムのまさに、
0.01を開発したメインの開発者の方だ。
彼に取材させていただいたことで、
この物語はちゃんと開発の話にできたと思う。

わたしにとってはレジェンドでもある山中さんが稽古場に?
しかも初通しに?

緊張しまくりでしたが書き直しする時間はたくさんあるし、
いま来てもらって内容をチェックしていただけるのは、
とても素晴らしいことなので、
喜びしかないですが、
稽古場は五反田。
そして、相模ゴムは、相模というくらいですから、
場所、厚木なんですよ!!

なのに来てくださった山中さんは、
とても楽しそうに見てくださっていましたが、
時折ノートに向かい、なにやら真剣に書いてらっしゃいます。
わー、そんなにたくさんチェック事項が。。。

演劇なのでもちろんフィクションも多いんですが、
基本としては開発についてとかは都合がよくならないように、
丁寧に書いているつもりではあるんですが、
当たり前ですが、
コンドームに関しては俄かだし、素人なんでね。。。

緊張しつつ、初通しを終えました。
で、山中さんに、
「なにか気になることはありましたか?」
と伺ったら、
「細かいことなんですが・・・」
と前置きして、
「精子は長さは確かに60マイクロメートルですが、
直径は違うハズです」
とおっしゃいました。
はい。それはもちろんすぐ直します。
続きは。その続きは。
「それだけですね」
え。あのメモは。なんだったのでしょうか。

なんと山中さん。
お芝居のなかに開発のヒントがたくさんあると思い、
それを忘れないようにメモしてくださっていたのだそうです。
それは恐縮だけど嬉しすぎる。

そんな山中さんとの懇親会はコチラ。
今回コタが演じてくれる役は、
山中さんの真摯で優しくてユーモアのある印象を
投影して書いた役です。
お会いできて嬉しそうですね。

そして時は過ぎ最終からひとつ前の通し。
またも田島さんから驚愕のラインが。

「北田さん、稽古場いらっしゃいます」

北田さんは、取材させていただき、
その後、わたしたちと懇親飲み会にも来ていただき、
作品を助けてくれました。

北田さんも観終わった第一声は、
「開発現場がリアルで驚いた」
だそうです。
そして、どこがいちばん印象的でしたか、
という田島さんからの質問に、
わたし的にはすごく嬉しい箇所をあげてくれました。
そのセリフは終盤の大切な会議の場面で、
根津さん演じる開発者が言う言葉です。
ちょっと楽しみにしていてくださいね。

これは、北田さんをモデルにした役を演じるマッキー
とのツーショット。
連続動画にも出てくれてる妻から、
「実際の兄弟より似てる」
という興奮のラインが来ました。
今回、
スタッフからも、この役マッキーです、と言ったら
やっぱりー、と声があがったくらいでしたから、
もうマッキーが演じるべき役なんですね。
お楽しみに。

それにしてもふたりの開発者の方から
リアルで驚いた、と言ってもらったコンドーム開発の話。
開発現場だけではなく、
いろんな人物がじっさいの会社の方たちのエピソードに
重なるそうです。
演劇なので悲喜こもごもな内容で、そこは想像で
書いているフィクションなのですが、
真剣に考えた時間はいろんなこととシンクロしていくもの
なんだなって思いました。

そしてなにより言いたいのは、
来てくださいと言われたらこんなところまで来てくれる、
好奇心のあり方。
わたしがいちばん伝えたかったのは、
コンドームの作り方以上に、
その「楽しく仕事をするんだ」という姿勢です。

ほんとうにありがとうございました。
劇場入りし、明日から本番です。
山中さんは、26日のアフタートークにも来てくださいます。
まだチケットほんとに若干ありますのでぜひ
お出かけください。

そして、わたしのエンブゼミの教え子が最終通しを
観てくれたんですが、
ふたりの女の子たちが、
涙声で感想を言ってくれました。
あまり大きな声で宣言できませんが、
今回「笑って泣けます」
たぶん、たぶんですが。
そうなるようにがんばります。

そして27日はほんとに数枚で完売のようです。
ここ数日の勢いが凄いのでぜひご予約はお早目に。
お待ちしております!

コンドーム0.01

日々いろんなことがありすぎる。
台風が2回来て、甚大な被害を残した。
しかし、地震に比べてわたしたちはなかなかそれを共有できない。
曲りなりにも地面が揺れ恐怖を感じたという体験は大きいのだ、
と知った。
どうしているだろうか、急に寒くなって、
安全な場所にいるわたしたちでさえ風邪をひく、
どうされているかとせめて一日一度は思う。
そんなことしかできない。
遠い場所で蝶々が羽ばたくとこちらで嵐が起こる
そんな繊細な星にいるわたしたちは、
この星に無理をさせすぎているんじゃないか。

勘違いしたくないのは、台風が何度起こって、
地震が繰り返されても、
死ぬのは生物のみということだ。
星は死なない。星をたいせつにするのは自分たちの命を
守るためだ。
地球のために、なんて馬鹿馬鹿しい話はしないでほしい。
月だって、火星だって生命体はいないけど、
星としてはちゃんと生きている。

そんななか公演である。
エイヤっと思わないと宣伝も送れないが、
わたしたちは日々真剣に稽古をしている。

「コンドーム0.01」っていうタイトルでどんなお芝居が
上演されるって思うだろうか。
わたしも書く前はまるでわかってなかった。
こんな話が書けたんだ、と書きあがり、稽古している
いまも少し不思議な気分だ。

「人生を分け合う話」

とチラシには書いたけど、ほんとにそんな話になった。
このメンバーでないと書けなかったと思う。
このメンバーでないとやれなかったと思う。
安心して書いて、安心して稽古している。
わたしはなにを言ってもいい。
完璧な人間じゃないけど、それを知っててくれるから、
取り繕わないで、
いいお芝居を作ることだけ考えていればいいのだ。
優しくて、でも獰猛で、ちゃんと自分を持ってて、
わたしを甘やかして「さあ、遊べ」と背中を押してくれる
最強メンバーだ。

このメンバーで、このお芝居をやれるのは幸運なことだ。
それをお客さままで感じてもらえるかたちで手渡すには
どうしたらいいか、
稽古場は今日も戦っている。

スタッフも最強だ。こんなことやりたい、
あんなことやりたい、
そう思っても、つい最近まで
どうしたらいいかわからないことがたくさんあったのだ。

こんな曲を作りたい、と言ったら、
真平くんという碓井くんの友人である男の子と
素敵な出会いがあった。
チラシには載せられなかったけど
→劇場で配られるチラシとパンフには載ってます
曲が難しいからこんなの振りつけられないと焦り、
お願いしたら野田裕貴くん(梅棒)が引き受けてくれた。
どちらもすごくプロのお仕事で、
プロだなあ、と思う人といるのがなにより好きなので、
癒された。

彼らのおかげで思い通りのシーンも作れた。
そのほか、詩森組と最近は言っていただく、
最強スタッフたちがもちろん支えてくれている。

「アンネの日」が好きだった方。
あの登場人物たちが10番目の出演者です。
話はまったく関係ないけど、
こころのなかで繋がっているし、
やっぱりそういう話になりました。

さあ。最後の仕上げだ。
コンドームとセックスという言葉が、
毎分一回くらいで出てくるけど、
上品でチャーミングな話にしたい。
頑張りますのでぜひいらしてください。

どんどん椅子席がなくなってベンチ席のみに
切り替わっております。
ご予約どうぞお早目に!

たまには自分のチケットページとか貼っちゃう。
これはわたしの物語でもあるから。

劇場でお待ちしています!

「表現の不自由展その後」

今回の「あいちトリエンナーレ」での「表現の不自由展その後」
に関しての、一連のことに関して、
メモ程度に残す。

起こったことについては、ここに詳しい。
すべてがわたしと同じ意見ではないけれども、
基本として主旨にも賛同する。

今回の件に限らず、
ネット上の意見というのはなぜか相対値で書かれる場合が多い。
もちろん相対的な視点を持つことはいいことだと思うけれど、
Aさんに比べたらBさんは問題がない、的な意見は、
どうもわたしは違和感を感じる。
そういう場合、
Aさんも問題があるし、Bさんも問題がある、
ということではないのだろうか。
Aさんは仲間でBさんはもともと仲が悪い、とか
そういうのも関係ないと思う。
わたしは表現に携わるので、
表現の権利については日頃から考えていて、
現段階での自分の判断基準を持つことにしている。
(更新しなければいけないことももちろんある)

その前提で。

1.芸術の展示の中止を行政が求める→そもそも憲法違反なのでダメ
2.芸術の展示について国の方針と反するのでしていた助成金を支給しない可能性を示唆→大問題。憲法的にもありえない。
3.市民からのバッシング・中止を求める行動→権利としてはあり
4.テロ予告→犯罪なのでもちろんダメ
5.テロ予告を受けての中止→安全が確保されないなら妥当かも?
(準備段階での見通しの甘さは運営側の反省材料)
6.出展者側が十分な納得をしていない→主催者側がダメ

わたしはそう考える。
個人感情をそこに挟む余地がわたしにとってはない。

ただ、5に関しては、
いろいろグローバルスタンダードなども調べてみたが、
よくわからなかった。
ヨーロッパでは基本、劇場や美術館でも空港のような
セキュリティチェックをされる場合が多い。
(カメラや録音機に目を光らす日本とは違い、完全にテロや犯罪対策)
今回の場合は、展示内容があきらかに政治的だし、
インモラルに寄るものも多そうだから、
普通の展示会より、エマージェンシーに対しての準備は、
必要だったろうな、と個人的には思う。

「表現の自由」が守られなかった、という
おおきな、大きすぎる前例を作ってしまった。
これからは行政のみならず、
悪質な愉快犯によってもわたしたちの表現が、
脅かされる時代がやってくる。
もちろん現実的なテロ行為も。

それにしても。

表現の自由は、人権(憲法)の大きな根幹を成すものであるから、
行政はむしろそれを必死で守る立場ではないだろうか。
機動隊が来て、厳戒態勢を引いたっていいんだぜ、
とは思う。

主催者側も、お金さえ準備できれば、
クレーム電話対応のプロを雇い、
警備保障会社による手厚いセキュリティチェックをすることだって、
可能ではあったろう。

内情もわからないし、どの程度の危険性だったのかわからないので、
「すべきだった」という話ではありません。

6について。
悪いのは、テロ予告を出した犯罪者と対応しない警察なんだから、
主催者は悪くない、という意見を見て驚いてしまった。
ここについては、
テロ予告と対応しない警察は、まったくダメだけど、
だからと言って参加アーティストにあのような声明を出させてしまうのは、
(その後、当該展示以外のアーティストも声明を出している)
それは、わたしは、いけないことだと思います。

そもそもあの展示を企画する人たちなのだから、
政治的に決まっているし、
レジスタンス色も強いはず。
それが悪いなんて言われたら、それはもう、なんか、
なんで呼んだんだ、ってことになるのではないかしら。

主催者側は、
最後まで誠実な対応を、とこの立場になりうるアーティストとして
ぜひお願いしたい。

今日会った若い美術家のお友達が、
いろんなレイヤーがありすぎて、簡単にまとまらない、
と言っていて、わたしもそれには心から同意する。
なので現時点でのわたしの考えを記した。

ツイッターでも紹介したけど、本を一冊紹介します。
表現に関わる全ての人、
SNSで感想書いたり意見書いたりする人も表現者として、
みんなに読んでほしい本です。
すくなくともわたしは、すごく衝撃を受けました。
表現の自由って、自分にとって不愉快な表現の自由も
認めることなんだ、って。
この本で書かれているいちばん大きなことは、

「表現があったとき権力による中止や停止を求めることは、
自分の表現も脅かすことになる。
もしもある表現を不愉快と感じたら、表現によってのみ
抵抗すべきである。」

ということです。

仕事に戻ろう。

「マネーショート」を見て考えたこと

「マネーショート」という映画を見ました。
これは、本格的すぎるほど本格的な金融映画です。
リーマンショックの引き金となったサブプライムローンの破綻、
その逆目を張って儲けた金融マンたちの物語で、
途中途中で的確な説明シーンがあるものの、
おそらくロング・ポジションとショート・ポジションの正確な意味、
リーマン・ショックの全容、
その引き金となったサブプライムローンとその破綻の背景、
などを知らないとまったく楽しめない映画です。

特に、4組(チームだったりひとりだったり)の金融マンの物語が、
並列かつ目まぐるしく変わり、
どの人の背景もすごくちゃんと書き込まれ、
それぞれの金融の手法や検証方法も違う。
その丁寧さとリアルさたるや、凄みさえ感じるほどです。

わたしは金融を演劇にしたことがあるので、
最初から最後まで、淀みなく楽しみ、感動しました。

なにが素晴らしいって、
金融マンたちが、逆目を張って大儲けして、
それでハッピーというのではなくて、
金融破綻が市民を損ねるものだということ、
そしてその中で勝った金融マンたちも複雑な思いを生きたことまで、
丁寧に描いていることです。

ああ。面白かった。面白かった。
と何度も言ってしまうけど、
まったくわからなかったという意見もネット上に
散見しています。とうぜんといえばとうぜんですが。
わたしも、15年前にこの映画を見ても、
まったく意味がわからなかったのではないか、と思います。

しかしこの作品はアメリカでアカデミー作品賞の対象と
なっています。
日本ではお金は貯蓄しなさい、という教育を受ける人が
多いと思いますが、
海外では投資に関する教育を親から受けると聞いたことがあります。
そういう背景の違いは大きいのかもしれません。
また、リーマンショックの際の報道があり、
リーマンショックの基礎的な知識があるのが当然というところで、
作られているのでしょう。

それで、映画が面白かった、という単純なことではなく、
わかる、わからない、ということに関しての、
深い溝について、
日頃、そのことで常に悩んでいる劇作家として、
今後どうしていったらいいのかなー、と考え込んでしまったのでした。

そのあたりを解決するために、劇中でおもしろく説明する、
という方法を編み出し、
あの手この手を使って考えてきました。

それは、どんなに内容について知らないお客さまでも
楽しむ権利があるし、そういう人に理解できないと、
やる意味もないよねと思うから、というのがひとつ。

もうひとつは、たとえば、今回の「マネーショート」の場合、
金融の深いところに入り込まずに、
とにかく逆目に張って儲けたんだ、
というところをザクッと描いたほうが実はわかりやすい。
しかし、そうなると、高度に発達した金融工学が、
金融の本来の目的を忘れ、マネーゲームに走った結果、
金融の破綻を生んだという現代社会の深部に届く作品にはならない。
そこに照準を合わせてしっかり描き成功させている
監督や俳優陣に驚きます。
わたしも深く事象に切り込むために各論に拘りたいし、
その各論をディティールまで仔細に描くために、
物語(演劇)としての巧さや完成度を犠牲にしても説明を入れ込む必要がある、
ということ。

しかし、「マネーショート」を素晴らしいと思うのは、
わたしがこの事象を深く理解しているからであって、
映画の評価としては日本ではそれほど高くないのが実情です。
内容を理解したうえでの高度な議論はほとんどなされていなくて、
ほとんどが「わからないからつまらない」
「おもしろいんだろうけど難しくてわたしにはわからなかった」
もしくは、
「わからなかったけど、おもしろかった」
という論のなかに押し込まれています。
(もちろんすべてではないですよ)

わたしも最初に書いたように、
前ならまったくこの映画が理解できなかったと思うので、
だから日本人はダメなんだ、とか偉そうに言うつもりはありません。

でもたぶん「わたしには難しい」ことのなかにたくさんの真実が、
いま隠されていて、
わたしたちの生活を少しづつ浸食し、
犯しているような気がします。

経済も政治も。わたしたちの生活も。
同じ箱のなかにはいっていて、相互に関わり合い、
けして無関係ではいられないというのに。

おそらくはわたしの「わからない」のなかにも、
おそろしい怪物は潜んでいる。
演劇をひとつ作るたび、その怪物との対峙を迫られることも多いです。
でも、だからこそ、アウトプットの仕方に悩みます。

これから、どういうふうに作品を創っていこうかな、と、
最近考えていることの、ヒントになるというより、
さらに鬱々とする体験になりましたが、
観てよかったです。

わたしが金融のシステムについて説明しながら、
「マネーショート」観る会とかやればいいのかなあ。
引き続き考えていこうと思います。

「選挙」を終えて

改憲議席の維持ができなかったことはほんとうにホッとしました。

とは言え、投票率の低さに暗澹とした夜を過ごした方(わたしも)は多いはず。でも、この投票率の落ち込み、無関心というより積極的離脱が意外に多いのでは、と思量しますがいかがでしょうか。

いままで以上にわたしの周りでも声を上げるひとが多く、それは必要と危機感に迫られてのことで、とても理解できます。

しかし、それ以外の考えを持つひとをSNSという場から排除し、投票になんか意地でも行きたくないという心持にさせてしまったのではないかという懸念も拭えません。

ここの分断について、どうすればよいのか、わたしはずっと考えてきました。

原子力発電が事故を起こしたときから、インターネットが普及したこの社会で、今後いちばんの問題はディスコミュニケーションとなるだろうと思っていたからです。

賛成派、反対派がお互いに優位性を確信している状態での論議はなにも生みません。
政治の話もまたしかりです。

さまざまな問題の要因は、歴史に学び、ひとの行動原理を分析し、考えないとあぶりだせません。無関心層がなぜ無関心か、ということは、根深い問題であると同時に、問題解決へのカギも握っていると思います。

民主主義の危機、とか言ったって、たぶん民主主義がなにかさえわからないひと、たくさんいると思うのです。そして、それは、その本人のせいではなくて、そうなっている要因がべつにある。

自分がわからなくて、価値も感じていないものに、自分の心地よい生活を乱されていると感じることは、わたしたちにも覚えがあるはず。行きたくもないのに行く「釣り」は、圧倒的な苦痛でしかない。「釣り」と「選挙」は違う、といきりたっても仕方がないです。いまの日本では「選挙」は任意の行動でいいというもので、なんの強制力もない。なのにものすごく重要なもので、大切なものであることは確かで、それを「政治の話はしないほうがいい」という常識がまかり通る国で、日本史は、戦争終わるあたりでなぜか尻切れる、政治経済の授業は選択制。そんな国で運営しようとしている。

無理があるんではないでしょうか。

とは言え、教育を変えるには政治によくなってもらわないと不可能なわけで、なかなかの堂々巡りです。うーむ。どうしよう。

こう書くと、お前も選挙に行くことに優位性を感じてるんだろ、と思われますよね。「上から目線」と。いえいえ。上からではなく、ほんとうに困っているし、怖いだけなんです。どうにかならないかなって、途方に暮れているだけなんですよ。自分の力だけでなんとかなることだったら、こんなに困らないです。

「ボードゲームしないひとは人生損してる」
とか、ましてや「ボードゲームどうしてもやってほしいんだよ。」とか
言ったことないですしね。

とは言え、こんなにも危機感を感じているひとが身近にいるんだ、って実感できたという意味でSNSの果たした役割は大きいと思うんです。孤独ですからね。SNSは繋がるという意味ではとても優れた面がある。「れいわ」の戦いがまがりなりにも周知されたことや、立憲の議席数増とかは、SNSあっての成果と言えますよね。

しかしこのSNSのせいで、もしかしたら投票率が下がっているのかも、という視点も持って、考え続けていきたいと思います。