海辺の町で作る意味

私は盛岡から上京して、東京で演劇を作ってきた。それは、歪な町、東京を愛してしまったから。自分の才能を過信しえない、厳しい環境も好きだし、わたしの持つ演劇スタイルも東京と共に創ってきたもので、これからも東京で演劇をやっていくのだと思う。

だけど、当初から、座組のなかでもある「東京でやれないのはもったいない。」という言葉には抗いたいと思って創ってきた。それはこれだけ時間をかけた作品を、例え東京であっても一か所でしかやれないのはもったいない。また、わたしのお客さまも、劇団のお客さまももちろん東京に多いので、集客ということではいつもよりは寄与できず、それは申し訳ないな、と思うけれど、それ以外の点では、水戸でなければならない理由しかない。

ひとつは、作っているのは水戸の劇場で、とうぜん制作陣はそこのひとたちで、ならばこの演劇は水戸芸術館で観ることが、いちばんだし、大切だと思うからだ。わたしは演劇製作ということについて、人の何倍もガツガツしてるし、わりときめ細かくもあるので、いろいろ物足りなくはあり、時に怒ったりもしているが、お金とか場所とか、そういったリスクを取っているのは水戸芸術館だから、そこまでやったのにこの演劇?みたいなときに「もったいない」という言葉は使用すべきで、なぜ東京でやらないことが「もったいない」のか。意味が解らないし、ほんとうに失礼なことだな、と思うからだ。

もうひとつは、東京は東京ローカルであって、他都市に比べて、優位性のある都市ではまったくないからだ。プロデューサー気質なので、東京で先行リーディングしたら少しは水戸へ来てくださるお客さん増えるかな、と思ったりはしたが、「東京でやらないのはもったいない。」という言葉がフィロソフィーとして醜いと思うくらいの芸術家としての感受性はある。そういう既成の価値観にかんたんにおもねては、いいものは作れない。話はズレるけど、同じように、東京に留まっている演劇人を地方へと移った演劇人が揶揄する言葉にもわたしは日頃から違和感がある。あなたが東京外の地域を選んだことはステキなことだと思う。でもわたしは東京を選んだ。漫然といるわけではなく、選んだ。それは尊重してもらいたい。

最後は、舞台となった鉄道のそばで、オフのたびに俳優たちは、その鉄道に乗りながら、その空気のなかで作るという贅沢を、存分にしながら創った作品だということだ。その空気ごと見せたいし、だから一か所しかやれないなら、この劇場しかないと思う。舞台美術も他の劇場ではまったく成立しないものにした。舞台面と客席の面積がほぼ同じという円形劇場。観ていただければわかると思うが、この思い切ったプランは、この劇場でしか成立しないものだ。

俳優は、プロの俳優である春海さん、相方の田島さん、わたしがいつも創っているメンバー、オーディション、劇場所属の劇団の劇団員、という混合戦である。いちから全員オファーで選べたら、それはラクだったろーなー、と思うが、この物語のリアリティは、有名俳優を並べて確保できるようなものでもにないと思う。オーディションでもただ上手いひとより、海浜鉄道の社員に見えるひと、地元の高校生としてリアリティがあるひとを選択した。演技指導に近い演出も多々やらなければいけないが、それは仕方がない。もうダメだ・・・と何度も思ったけど、ようやく俳優たちが舞台のうえで呼吸し始めた。そうなってくるとこの座組は強い。厳しくやるということは、わたし自身の演出としての手腕も俳優たちから厳しく観られているということで、この演出家についていけばいい作品になると思ってもらわないと仕事として成立しない。皆のサジェスチョンを聞くときの表情が変化してきた。パワハラと厳しい創作態度は紙一重で、甘えかもしれないけど、オーケーを出すときのフェアネスでしか判断できないようなものだと思う。

すべては作品のために。

たくさんのひとに協力してもらい、心をわけてもらいながら創った作品の幕が開く。先日応援団長の佐藤さんが稽古場で通しを観てくださった。涙で感想の言葉が出ず、わたしたちも思わず泣いた。劇場ではもっともっと喜んでもらいたい。そういうひとたちがたくさんいる。2年前まであることも知らなかったちいさな海辺の鉄道。わたしの人生にとって、そしてたぶん俳優たちの人生にとっても、大切な作品の幕があく。素晴らしい作品だから大切、ということではなく、もし失敗したとしても、それが、モデルとなった鉄道やひとたちまで損ねるのだという厳しさも味わう作品になるから。もちろんそんなことにはしたくない。わたしたち演劇人の人生は、他者のために捧げられている。そのことの厳しさを知り、そして誇らしく思える作品になるといい。

迷っている皆さま、どうぞ水戸までいらしてください。ここでしか見られない演劇を創ってお待ちしています。せっかくの3連休、始まる前でも終わったあとでも、鉄道に乗ってモデルとなった場所を味わうことができる贅沢な公演です。

「海辺の鉄道の話」。
9月20日から24日まで。あっというまに終わってしまいます。
お待ちしております。

公演を中止するという選択のこと

公演中止という選択が続いた。これについて、うちならやるとか、やらないとか決意表明してもまったく意味がないように思う。なぜなら、公演は計画された以上、やるのが当然で、それ以外を望んでいるひとは、今回の当事者含めて、作り手、お客さま、どちらもいないと思うからだ。また、できるかぎり創るプロセスも美しくありたいと、創り手はもれなく思っている。そのフローは、おそらく誰が考えるものであっても似ているはずで、わたしたちはある意味、同じ理想を持って進んでいる。しかし、それは、当然のように完璧にはいかない。いろいろな要素があって、絡み合った結果、今回のようなことが起こってしまう。

今回の件に関しては、小劇場全体の問題、などと思っているわけではないけれど、なにか責任のようものも感じている。それはここには書けない似たような事象を最近体験したというのもあったからだと思う。(それは、わたしがひとつの原因ともなり、起ったことだった)なのでまずは、演劇公演といういろんな意味でとても大切な契約を破られてしまったことに対して、わたしが取りようもない責任をかんじていることはお伝えしたい。その上で、ちょっと書いてみる。

ゼロから1を生み出すことの途方のなさに常に晒され、体験している身としては、そんなかんたんには、頑張ればやれたハズ、とも言えないし、でも自分も体験してるからこそ、それはなんとかできるはずだし、しなきゃでしょ、とも思う。筆が遅いとか早いとか関係なく、劇作家であれば、きっと誰もがそうなんじゃないか。だから今回のことで、関係のない劇作家のひとたちも、そうとうメンタルに負担がかかったんじゃないかと思う。演劇に関わるすべての職種の中で、というか、演劇も関係ない全ての職種のなかで、かなり特殊な仕事なのだ。作家とか劇作家という仕事は。根性論では、どうにもならない。このあたり、根性でいつもなんとかしているわたしが言うのだから、信じてほしい。

つい先日の公演パンフレットに、書くのはまったく楽しくない。書きあがるのは楽しい。書きあがるという奇跡があるから、劇作家という仕事を続けている。と書いた。この奇跡は奇跡なのでいつ途絶えるかわからない。モチベーションはほんのささいなことでゼロになる。劇作家の心を台無しにするのは、すごくカンタンなのだ。一回台無しになると3日くらいはフツーになんにもできない。アタマの中は常に五月蠅く、狂わない自分が異常だとわたしは思っている。(実際のわたしの精神は劇作家としては超安定型とは思うが、そんなわたしでさえそうなのだ。ましてや繊細なひとなんて、うかつにテレビもつけられないんじゃないか)

少し思ったのは、もう少し劇作の技術というのはシェアされていいのかもしれないということだ。書きはじめるのに技術はいらないが、書き上げるということに関して、おそらく助けてくれるのは技術だからだ。信頼しあう劇作家同士限定だと思うけど(書くのを代わるとかではなく)、気楽にレスキューし合える場があるといいのかもしれない。でもな。そんな場を持って、かえって台無しになる可能性もあるから難しい。この仕事はほんとうに。でも俳優がジリジリとして苦しい思いで待っている現場は、他人事とはとても思えない。なにかよいシステムが作れないものだろうか。

さて、最後にわたしが大切にしているあるエピソードをご紹介したい。亡くなった大地喜和子さんが、宮本研さんの、とある作品の出来があまりよくなくて、でも文学座の方たちがそれでもそのまま初日を開けようとしたときに、喫茶店の床に転がって、このまま幕を開けるなら死ぬ、と叫んだそうだ。それで、みな、自分の分別を恥じ、初日を遅らせて書き直してもらい、幕を開けたのだそうだ。

だから、クオリティの甘いものなら公演中止も止むかたなし、という話がしたいわけではない。でも、このときの太地さんはどれほど美しく、可愛かったか、と思う。そして、その選択は間違っているとはとても言えない。演劇の希望だな、とさえ思う。そんなわたしは井上ひさしさんの遅筆はまったく美しいと思っていない。俳優が、クオリティのために戦ったというところにこの話の美しさはある。表舞台を守る俳優のため、劇作家はやはり稽古期間を削ってしまってはいけないのだと思う。自分の演出の現場だとしわ寄せがきて、俳優に負担かけてしまうこともあるので自戒の意味を込めてほんとうにそう思う。

とにかく、公演初日に、最高のクオリティのものを届けられるよう、命がけでやるしかないのだわたしたちは。クオリティが間に合ってないのも、幕が上がらないのも、両方ダメなのだ。そういう厳しい仕事なのだ。

とは言え、それはそんなに簡単なことではない。また、そうなるように個人で努力すればいいところと、全体で考えていかなければいけないこと(お金にならない小劇場という製作の仕組みや、新作至上主義)がある。防ぐための万能の仕組みなどないのだ。でもどうすればいいのかについては考えてなければいけないと思う。書かずに済んだら、と思っていたけど、少し考えをまとめたくて書いた。引き続き考えていきたい。

生産性と税金の関係

杉田水脈さんの「LGBTのような生産性がないものに税金を使うのは無駄」というあの寄稿は、論を重ねて否定する価値さえ感じないけれど、でもあれが、現在の政治が目指す方向性であるとは言えそうだと思う。すなわち、生産性が税金の使い道として大切である、という考え方である。

税金というのはそもそもわたしたちが日本に住むための会費みたいなもので、個人では賄えない、公共の福祉、インフラ整備、等に、国が代理で管理し、使用するものだ。

119番に電話すれば救急車が来て、110番に電話すれば警察が来てくれる。障害があったり、年を取ったり、病気になったり、そういうひとの生きづらさのためにも使用されるし、教育にも使用される。年金だって、保険だってそうだ。(余談だけど、日本の税金の使い道のほぼ半分が公務員の賃金と年金制度とか保険制度を支えるためのものだ。これについてはまた書こうと思う。)

このすべてに生産性があるか。ないと思うし、ある必要もない。儲けを出すことが前提のものではないからだ。儲けが出ないけれど大切なものを、みんなでお金を出し合ってなんとかしていきましょう、というのが税金の本来的な主旨であるわけで、そもそも生産性なんて言葉とは無縁なものであるはずなのだ。

しかし、国家が赤字で、支出が縮小できないわたしたちの国では、現在、税金の使い道として、「生産性」が求められている、らしい。いや。おそらくそれが、第一義となっていて、それは少なくとも与党内部では常識というか大前提でモノゴトが進んでいるのだろう。

でなければ、「生産性のないものに税金は使えない。」なんていう、言説が出てくるハズがない。正直で、考えが足りないから、うっかり書いてしまうだけで、彼女のあの発言の下に、すごく大きなほんとうの問題が隠れているのではないかとわたしは思う。

だから、豪雨災害でひとが死んでいる、この猛暑と重なり一刻も早い対策が求められる現状のなか、カジノ法案のため国土交通省大臣が国会に据え置きされるなんて事態が起こる。カジノ法案は、財界的には悲願とも言える法案で、外貨を流入させるという赤字財政回復のため切り札でもある。外貨が流入せずとも、国民の預貯金を吐き出させるひとつのカードにはなるだろう。(日本がこんなに借金だらけでも国際社会の信用が失われないのは、国民の預貯金を合わせればまだ黒字という国民の経済的体力によるものです。そして日本人のギャンブル依存気質はパチンコで証明されていますね。)まさに生産性(経済)がなににも勝るし、そういう観点で政治を進めているひとたちにとっては、そうでないことでキュウキュウとしているひとたちは、バカに見えるということなのかなと思う。彼らにとってみれば、カジノ法案を優先するほうが、国のため、なのである。その価値観のまえでは、なにを言っても無駄だ、というのが現在の状況なのだ。

というようなことがよくわかった今回の騒動であった。このままでは、例えば生産性のために、オリンピックは開催され、生産性のためにひとが死ぬ。オリンピックばかりではなく、一事が万事そんなカンジでモノゴトが進んでいく。

以上、杉田さんの言説について、人権問題としてのアプローチはたくさんあったけれど、税金と生産性という観点から書いているものがあまり見当たらなかったので書いてみました。税金と政治とか経済と政治についてはいろいろ考えることも多いので、また書きます。

face bookから少し

「serial numberのserial number」が終わってから、
ブログおやすみしちゃって、
ご挨拶さえできてませんでした。
ふたり芝居の3連作なのに、
たくさんのお客さまに来ていただくことができました。
ありがとうございました。
さて。
新しい記事も書くのですが、
face bookのほうに書いた記事、
わりと丁寧に書いたものいくつか転載したいと思います。

新作やら特報やら、続々

ここはわりとまとまったコラム的なことを書くつもりでいるのですが、
執筆佳境、稽古佳境、教えの仕事もありで、ちょっと忙しい。

執筆は、10月に俳優座劇場で劇団朋友さんにやっていただきます、
「残の島-伊藤野枝と代準介、そしてルイズ-」
と言います。
そう。わたし。伊藤野枝を書くんです。
もともと評伝劇を書くのが好きで、
でも、ちょっとこれは自分に向きすぎていると自劇団では
封印しています。
前に本格的に書いたのは、園井恵子さん。
それも外部からの委託でした。
しかし、「紀伊国屋演劇賞 個人賞」を取りましたので、
得意、証明されております。笑。
しかも。こんどは伊藤野枝ですよ!
野枝ですよ、って言われてもかもしれませんが。
わたしからすると、わたしが書かねば誰が書く、という題材です。
それも、有名な大杉栄との関係ではなく、
野枝の養父ともいうべき叔父の代準介との関係を描いた、
「伊藤野枝と代準介」という矢野寛治さんの作品を
原作とさせていただいております。
そこに、野枝の娘さんである伊藤ルイズさんの、
野枝の死後、娘たちがどう生きたのか、
詩森が付加した視点が加わります。
上手く書けるかなー、と書く前はおびえてましたが、
上手く書けるかどころか、わたしはやっぱりこういうのが得意、
と認めざる得ないカンジです。
生き生きと跳ね回っております。
お楽しみにお待ちください。
新劇も劇団朋友も、あまり縁のない方々にこそ
わたしの野枝を観ていただきたいです。
いままで観たり読んだりしたどの野枝より可愛い。
可愛いを目指します。

そして稽古佳境は、
「serial numberのserial number」です。
これは自信作ばかり3作品を
抜けのないキャストで上演するという、
誰トクって俺トクな芝居です。
毎日、毎日、稽古楽しいです。

執筆楽しい。稽古楽しい。
こんな呑気でスミマセンが、
こんなことそうそうないので許してください。
いつもね。なんだかんだと、
ストレス満載で闘ってるんですよ。

そんなserial number。
続々と特報ができております。
本日アップしたのは、「next move」
ワークショップ公演での映像を編集した胸アツな映像です。
将棋指しと画家の人生が好きで、
将棋の本はかなり読んでます。あれば読んじゃいます。
でも将棋指しの話なんて書くつもりはなかったのですが、
稽古と稽古のはざまの公演で、
これはよく知ってていちばん書きたいことを書くしかない、
と書いた作品です。
演出、演者ふたり、とにかく大好きな作品で、
最低で傑作狙いますので、ぜひぜひお楽しみに、なんです。

そして、公開時期はこれより先ですが、
第2弾が、「nersery」
これは、とある映画を大期待して観に行って、
大期待外れを体験しまして、
精神科医と患者、そして担当医師に関わる謎っていう、
その設定だけ活かして書いたオリジナルです。
翻訳劇調のミステリー。お客さまのなかには、
これがいちばん好きという方もたくさんいらっしゃる
特異な作品です。
演技面ではいろいろ反省を残した作品ではあったのですが、
今回は、なんか、稽古が凄いです。
もうホント、凄い。
特に詩森のエース酒巻誉洋くんの、魅力がさく裂。
こんな俳優、いま日本にいないから、マジで。
わたしと田島さんは影でマッキーのことを
「演劇博士」と呼んでいます。笑。
ふたり芝居の極北を見せることができるかな、って思っています。

そんなこんなで稽古驀進中。
どの作品か選べない方のためにタイプ別推進作でも書いてみようと思ったけど、
誰よりわたしが選べません。
通し券で見ると1本3000円っていう信じ難い安さだし、
日程も、1か月で3本ってユッタリめだし、
通し券がいいんじゃないかな。。。
ってコトで、フォーム貼っておきますね。

 

この3演目チケット。席に余裕がある限り、購入したあとも席変更が可能です。

そして、そんなこと言われても初めて観るし、
と言う方は、
まずは「next move」を観てから次どうしようか、考えてもいいかも。
でもまずは「next move」観ないと、
遡っては観られませんからね!!
単独券の予約フォームはコチラです。

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そんなこと言われても日程が、
という方は日程が合うところどこでもダイジョウブです。
だって、どれもたぶん面白いから。

だってだって、予算が、と言う方は、特報を観てジックリ検討してくださいませ。
残る「ROBOTA」は6月半ばに公開予定です!!