チェルノブイリへの旅

昔、廃虚が好きでした。
いわゆる廃虚マニアです。
日本でいちばん行きたい場所は軍艦島、といつも言っていました。
それが変わったのは、ほかならぬ軍艦島とやはり長崎の池島に行ってからです。
このふたつは元炭鉱です。
そこに人が生きていたこと。
廃虚になるには、産業の衰退やそれ以外のいろいろな事情があることに
思い至りました。
なのでそれ以降は、廃虚には理由がある。
その理由を知らないと行く意味がないな、と考えるようになりました。
そこに住んだひとがいて、捨てられた意味がある、
と気づいてから、廃虚が好き、なんてかんたんに言えなくなりました。

そのときのことは、ココココに書いております。

チェルノブイリのゾーンと言われる場所に入れるようになって
最初は限られた研究者やジャーナリスト向けのツアーが入り、
いまは、数社の旅行会社が参画して望めば誰でも行けるようになっています。
ゾーンを舞台にしたゲームがあり、そのマニアのひと、
廃虚マニアのひと、
そしてわたしのようにチェルノブイリだから行ってみたいというひとが
年間に約5万人訪れるそうです。
ここやアウシュビッツ、日本だと水俣・福島などを
訪れることをダークツーリズムというんですね。
評論家の方がやっているフクシマを観光地化にする試み等、
わたしはまったく否定しないですが、
なんだかちょっと不得意な言葉です。
カテゴライズされるのがなんであれ苦手だからでしょうか。
ダーク、という強制力も苦手、観光と嘯くのも苦手。
自意識過剰なんだと思います。
でも行けるものならやはり行かなければ、ということで、
ツアーに参加して行ってまいりました。

ゲートを入り、犠牲になった方のモニュメント、
廃虚化した幼稚園、
金属のドームで覆われた4号機、
いまも線量が高いという赤い森、
そして、一日にして廃虚になった町プリピャチを回ります。
英語のツアーだったので、すべての言葉が理解できたとは
とても思えませんが、
丁寧なガイドさんで、
洗練され、整理されたツアーを体験しました。

これは入口のところにあるモニュメント。

ガイガーカウンターがレンタルできます。

これは幼稚園の庭に落ちていた人形。
こういったことは、ほとんどの場合、
後々のひとが演出で飾ったものらしいです。
そうですよね。
自然にこうはならない。
ひとは、罪深いなあ、と思います。
そうやって演出された空間で、
どこを撮っても絵になる。そういう瞬間が多々ありました。

幼稚園の内部。と田島さん。

お昼ご飯はゾーン内のレストランで食べます。
ゾーンのなかでごはんを食べる。
もちろん安全なごはんですが、
その瞬間がいちばん、身体感覚が発動した気がします。
昔、ドイツのドキュメンタリだったように記憶していますが、
チェルノブイリを訪ねる記録があって、
ゾーンに戻ってきたひとたちをサマショールというのですが、
そのひとりを訪ね、出してくれた食事を規則だから、
という理由で逡巡の末食べないというシーンがありました。
出したおばあさんの悲しい瞳が焼き付きます。
いまよりずっと線量が高かった時代の話です。
そのイメージとか、
辺見庸さんの「もの食うひとびと」の鮮烈さとか故かもしれません。

これが4号炉。この銀色の覆いができたことで、
線量が劇的に減り、
ツアー客が増えたのだそうです。
無人なカンジで撮れていますが、
ここにはすごくたくさんひとがいます。
そして幻想を抱いてほしくないのですが、
チェルノブイリの廃炉はまだまったく終わっていないのです。
覆っているだけ。

事故後もとなりの1号炉から3号炉までは、
発電を行っていました。
国際社会からの要請で、発電が止まったのは、2000年のことです。
ウクライナでは、
原子力に反対するひとたちのあいだでさえ
過渡期的には原子力使用がリアル、という考えがあるようです。

そして廃虚の街、プリピャチです。
これはとても賑わっていたカフェ。
食券を売る自販機の前で説明してくれるガイドさん。

常にその場所と過去の写真を対比しながら説明してくれます。

おそらく世界でいちばん有名な観覧車。
この遊園地は開業間近で、
稼働しないまま住民たちが避難しました。

市民センターのような場所の飛び込み台。
ここで練習していた子供たちが、
なにかの大会で賞を取った、
というようなことを言っていた気がします。

元小学校です。
ガスマスクがうずたかく積まれていることで有名です。
田島さんの後方に広がっているのがガスマスク。
この部屋もいろんな意味で演出されていましたが、
ガスマスクはじっさいにこの学校の残留物のようです。
原発対策というより、
核戦争対策だ、とのことでしたが、ほんとうなんでしょうか。
ペレストロイカ後とは言え、
まだまだ冷戦時代を引きずっていた時代の事故です。
いまのロシアの状況とはまた違う状況だったのだと思いますが、
小学校にこんなにも大量のガスマスク。
穏便とは、程遠い情景です。

ガイドさんの口から何度もソビエトシステム、という言葉が出ました。
ウクライナはいまは独立していますから、
ソビエト時代についていろいろな思いがあるのだと思いました。
言葉ができたらもっともっと話したいことがたくさんあったのに。

観光地化された、といわれるチェルノブイリですが、
わたしたちを案内してくれたガイドさんは、
プロフェッショナルとして、
いわゆる日本の観光ガイドとは一線を画する
きちんとした案内をしてくれました。

最後に行ったここは、ソビエト時代のレーダーだそうです。
写真ではわからないけど超巨大です。
あまりに巨大で実現化しないうちに事故が起こった、とのことですが、
いったいこれでソビエトはなにをやっていたのでしょうか。
軍事大国としてのソビエトに思いを馳せざるえない施設でした。

どこに行っても思うのですが、
感性が乏しいのか、
人生が変わるほどのショックというのは受けないです。
ああ。ここに。ほんとにあったんだなと。
チェルノブイリ事故は、ほんとにあったんだと。
ひとがいなくなった街を歩けば、
それは、悲しみのようなものには浸されます。
けれど、思った以上に淡々とわたしは歩きました。
悲しみを深くするのも違うし、
体温が上がるような興奮も違う、
カンタンに衝撃を受けたりするのもなんだかそぐわない。
すごく醒めていました。
無理にそうしたわけではなく、
そうなってしまう。
ショックなんて受けなくても、
ここに来たというだけでどうせ人生は変わってしまうのだから、
とにかく平熱で見ればいい、見るべきだ。
そう思い歩きました。

行けるんです。個人旅行でも。
もし必要なときは連絡ください。
行き方くらいは、教えられます。
それくらいしか、教えられないけれど。

革命の街を歩く-サンクトペテルグ-

古都サンクトペテルブルクです。
この街は、サンクト=ペテルブルグというのが昔からの名前ですが、
ロシア革命のころは、ペトログラード、
革命成就後は、レーニンから名前を取って レニングラード。
ペレストロイカ後、またサンクト=ペテルブルグに戻っています。
なので、「機械と音楽」の舞台となったころは、ペテログラード、
という名前でした。
貧しい農家に生まれたイヴァンは、
革命当時、家計の助けにと、この街に出稼ぎに来ていました。
「機械と音楽」は15歳のイヴァンが革命を目撃する十月革命の夜から始まります。

ここが、レーニン率いるボルシェビキが革命本部を置いたという
スモーリヌイ修道院。
最初の写真が内部ですが、とても美しい。
モスクワで言うと聖ワシリー寺院にあたる、
この街のひとたちにとっては重要な寺院なのだそうです。
市街地からはやや離れた場所にあり、
最寄りの地下鉄駅からでも30分近く歩きます。
革命の夜、矢も楯もたまらず、
彼の住むあたりからここまで走ってきたイヴァンのことを思いました。

イヴァンが住んでいたのはここらへん、と設定したのは、
センナヤ広場付近。
市場があり、商店が立ち並びます。
ドフトエフスキーが晩年住んだ場所があり、
ラスコーリニコフの家も、
ソーニャの家もこのあたりに設定されています。

これがドフトエフスキーが晩年住んだ家。
このあたりを歩きながら、
こういうところにオリガと身を潜めたのかな、
なんて話しました。
オリガは、今回の作品中、唯一、想像上の人物。
モデルでもある きなりちゃんが演じてくれます。
人気インスタグラマーでもあるらしく、
可愛すぎるでしょう。
あたりまえなんですが、チラシ撮影のポージングが
ただごとではなかったです。
プロって凄いね。

あ。話がズレました。

これはソーニャの家。

これはラスコーリニコフの家。
なんだろう。角地だからと言って、こんなに標識。ダサい。
近づくと、

こんなかんじで碑のようなものが埋め込まれてるんですけどね。
とはいえですね。
文学少女の慣れの果てなので、
興奮しました。

ミーハーなのでドフトエフスキーも行ったという
文学カフェでランチ。
ここですね。そこまで高くないけど、
美味しいし、内装も豪華。
シーズン中は観光客でごったがえすそうですが、
わたしたちはほぼひとりじめでした。

そして、ボリシェビキが倒した臨時政府がおかれていたという冬宮。

現在は、エルミタージュ美術館になっているのですが!
モノを知らないので、
冬宮=エルミタージュ、とは思わず、
けっこう入場料高いなー、と思いながら中に入りました。
しばらく見ていて、あれ、これエルミタージュじゃないの?
と思って調べたら、エルミタージュだったという。。。
いや。もちろんエルミタージュは行こうと思ってたんですよ。
でも、広大なので次の日ゆっくり観ようと思っていたのに。
いつのまにか入ってたっていう。。。

でもエルミタージュは、ルネサンス絵画が中心で、
そこまでわたしは興味がない。
かつ、いいものは、ルーブルとウィーンでかなり観てる。
ということでそこまでの執着を感じなかったので、
当時の皇帝(ツァーリ)の豪奢な生活を忍ぶことが中心になりました。

これが有名な階段なんですが、繊細かつ豪華。
すっかり革命家の気持ちに入っている田島さんが、
「こんな生活してるから農民が死ぬんだよ。」
と毒づいていました。

エルミタージュには別館があって、
そこは印象派の絵がたくさん収蔵されています。
いまのわたしは印象派がそこまで好き、ということではないのですが、
田舎に住んでて、家にあった印象派の画集=西洋絵画、
という育ち方をしたので、
やはり特別な気持ちにはなります。
なので別館のほうがずっと気を入れて観ました。
モネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ルソー。
わりと充実のコレクションだと思います。
冬なのもあって空いてますからね。もう一人占め気分で、
満喫できます。
これやっちゃうと、日本の美術展に行く気にならなくなる。
わたしの人生でも印象深い時間として、
オルセーでフェルメールとふたりきりで過ごした数分。
というのがあります。
贅沢、でした。

サンクトペテルブルグではもうひとつ。ロシア美術館に行きました。
ここはアヴァンギャルド絵画が収蔵されています。
モスクワでトレチャコフ休館日の罠に嵌り行きそこねたので、
ここで邂逅することができました。
わたしは東京でロシア・アヴァンギャルド関係の展覧会は、
すべて行っている、と自負しているのですが
田島さんにぜひホンモノを観てほしいと思っていたので
叶ってよかったです。

これはタトリンのコーナー・レリーフ。
そして、

同じくタトリンの
第三インターナショナル記念塔、の映像。
→トレチャコフ行けたらこれの立体が観れた、ハズ。
タトリンの作品は、
革命と芸術という意味でも、
建築家にとっても重要な位置づけとなるものばかりです。
メーリニコフとレオニドフがタトリンの話をするシーンが
あるので、この名前、ちょっと憶えておくと物語が楽しめます。

そしてマレービッチ。

さて、番外編。

nurseryというお芝居で
田島さん演じるルディが持ってた立体パズルはここ。
血の上の教会 です。
皇帝が処刑された場所のうえに建つ教会の前で、
にこやかに笑うマダムカーター。
ある意味ホラー。
とても綺麗な教会なんですが、あの丸い屋根、
作るのタイヘンだったなー、など、
そんなことばかり思ってしまいます。

ここも休館日で中を観ることできず。。。
そして。

美しいアールヌーボー様式で作られた鉄道駅。
ヴィテプフス駅。
利用者以外は入れない雰囲気出てますが、
駅員さんに言うと観ていーよー、みたいなカンジで
通してくれます。
美しかったです。

というわけで、サンクトペテルブルグ。
歴史ある古都です。
美しい街でした。

そしてナイトフライトでわたしたちはウクライナへ。

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モスクワを歩く-その他主だったアヴァンギャルド建築-

これは酒巻くんが演じてくれる、
モイセイ・ギンスブルクのドムナムコムフィン。
集合住宅です。
共用できる部分はできるだけ共有化し、個人のスペースを最小化する、
という共産主義の思想にとても忠実に建てられています。

そのため、集合住宅として人気がなくて、近年では廃墟化している、
と聞いていました。
今回、いちばん間に合うだろうか、と心配していた建物ですが、
ロシア・アヴァンギャルド建築を少しでも齧ったひとにとって、
他のどれよりも構成主義建築的と言っていいこの建物は、
たぶんアイドルみたいなもので、
じっさいわたしもどれより先にこの建物に会いに行きました。

近づくと、囲いがしてあって、工事の真っ最中である。
さいしょ、ついに取り壊されているのか、と震えてしまいました。

なにか書いてあるけどロシア語なのでわからない。。。
しかしどうも構造はそのままにリニューアルしているところのようでした。
集合住宅になるのか、なにか別のものに転用されるのか。
ちょうどその瞬間に会えたということで、
劇的な幕開けとなりました。

これは改築中の正面。黄色味かかった色から
白色に塗り替わっている。
その向こうに見えるのは、
スターリンの建築と呼ばれるもので、
エンパイヤステートビルのような塔が特徴です。
スターリンはこのかたちが好きで、
モスクワでギョッとするような巨大で立派な建物に遭遇したら、
ほぼこのスターリンの建築、
セブン・シスターズだと思って間違いありません。

メーリニコフ自邸に近いと思って取ったホテルは、
スターリン建築の外務省ビルのお膝元でもあって、
我々は連日その建物を横目に見ながら、
彼に迫害された建築家や作家たちの足跡を追うということになりました。

予測をはるかに超えて威風堂々。権力を誇示していましたね。
ヨーロッパの年は建築に統一感のある都市が多いですが、
モスクワはいろんな様式の建築が並んでいます。
そのなかでもスターリン建築と、
アヴァンギャルド建築は、
どちらも異形の建築でした。
このいろんな様式が混ざっていること自体が、
ロシアの激動の歴史とリンクしてるんだな、と実感できました。

これはヴェスニン兄弟の、たぶん元は政治犯のためのクラブ
だった場所なんだと思うんですが、いまは映画俳優たちの家
という名前になっています。
間違ってたらゴメンナサイ。
劇場なのかな。。。?
ニキータ・ミハルコフが芸術監督だそうです。
改修の必要が訴えられていましたがいまも月に数度は公演があるようです。
こういうこともっと調べぬいてから行くべきでしたね。。。
ルサコフクラブといい、チャンスを逃しました。
ヴェスニン兄弟の三男、アレクサンドル・ヴェスニンは
イヴァンの才能を見出した生涯の先生でした。
劇中では青山勝さんが演じてくださいます。

これはヴェスニンの作品としていちばん有名なリハチェフ文化宮殿。
宮殿とはいいますが、別にお城ではありません。
文化センター、みたいなカンジでしょうか。
現在は図書館や市民の勉強の場、
そしてバレエ学校などで使っているようです。

美しい螺旋階段。
ここでよくロシア映画とかで見る、
バレエ学校の廊下に小さなバレリーナたちがパーッと集う情景を観ました。
あの中から未来のプリマが登場するんでしょうか。
いわゆるお稽古事、というとは違う光景でした。
その下の階では年配の方々が社交ダンスを習っていました。
ここでは生きて使用されている構成主義建築の
息遣いをいちばん感じることができました。

これはモストルグ・デパート。
今はべネトンが入っています。
構成主義建築に、西洋資本主義の最も成功した一例が。
窓も七色に彩られ、これも時代の流れですね。

これはル・コルビジェが招待されたコンペで勝ち
建てられたツェントロ・ソユーズ。
モスクワの官公庁街にドーンと建っています。
裏手にはコルビジェの像がありました。
ミーハーですが、記念撮影。

嬉しそうですね。

そしてこちらはモダニズム建築ではないのですが、
おそらく、たぶんおそらく、
ブフテマスというイヴァンたちの学校の跡地ではないか、
と思われる場所。
ロシアのサイトをサーフィンして、いまはこんな場所になってるよ、
というのを頼りに探したのでまったくの勘違いかもしれません。
でも、こうイメージに合ってるし、とりあえずここにしよう、
ということでserial number的に決定されたイヴァンの母校です。
今も美術関係の学校が入っているようで、デッサンをする生徒さんを
窓に見つけて、イメージ強化。
ここも工事中でした。面白いのはロシアは工事中の場合、
その建物の元の絵を描いた布で覆われているんです。

これはラジオ・タワー。
シューホフがデザインしたモダニズム建築の始まりを告げた
とも言われる建築物です。
ほんとはこの倍くらいの高さになるはずだったんですが、
予算が足りず、とても可憐な高さで収まっています。
シューホフは出てきませんが、
青年のイヴァンと、生涯の友人(同級生なのは史実ですが、
友人だったのは詩森の創作で真相はわかりません)である
エレーナが、このラジオタワーを見に行くシーンがあります。
才気煥発でマヤコフスキーとも交流があった才女エレーナを
新進気鋭の女優さん、三浦透子ちゃんが演じてくれます。
透子ちゃん。
一度田島さんとシーンを演じてもらったんですが、
積んでるエンジンがケタ違いです。
早く稽古したいし、早くお見せしたい。

これはビル全体が広告になっていたビル。
ロトチェンコやマヤコフスキーの広告が全面に描かれていたそうです。
広告が盛んでマヤコフスキーもクッキーとか紅茶のコピーを
書いたりしてるんですが、
そのお金はどこから出て、だれの収入になっていたんだろうか。
共産主義時代のロシアってまだシステムをわかりきってないので、
今回のためにもう少し調べてみるつもりです。

最後に、物語のラスト出てくるレーニン図書館。
モダニズムが敗退し、また伝統建築が幅を利かせてきた
その象徴として出てきます。
作家としては複雑な気持ちになりますが、
建物としてなにも知らずに見たらとてもカッコよかったのでは、
と思います。

ロシアではこの他、演劇もたくさん見たんですが、
それはあとでまとめて演劇編で書こうと思います。

そして旅行記はようやく革命の街、
サンクトペテルブルクへ。

追記
本日、一般前売り開始です。
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モスクワを歩く-アヴァンギャルド建築 コンスタンチン・メーリニコフ編-

まずわたしが訪ねた構成主義建築とはなにか。
ロシア・アヴァンギャルドは、
共産主義思想を具現化するということをテーマに進められた
芸術運動で、詩、小説、演劇、音楽、絵画、立体と多岐に渡る。
象徴主義的なところから始まり、意味性の開放まで一気に進むので、
なかなか総体を理解するのは骨が折れる。
そのなかで構成主義建築というのは、
表面的なことだけ言えば、幾何学的なものの構成によって、
かたち作られた建築である。
これをもっと深く説明しようとすると、なかなかこの旅行記のなかでは
難しいので、省くけれど、
レリーフ、彫刻など、美しくデコラティブなものが是とされた既存の建築から脱し、
同じかたちを連続させたり、
幾何学の効率的な組み合わせで、
まったく新しい建築の概念を結果として生み出した
という意味で画期的だ。

ホテルはメーリニコフ自邸に近い、という理由で決めた。
メーリニコフは、イヴァンと並んで評価され、
イヴァン同様に名誉をはく奪された建築家だが、
ひとつ異なるところは、たくさんの建築を実際に建てていることだ。
そのなかでもとりわけ有名なのが共産主義国家だというのに
モスクワの中心地に建てたこの自邸である。
アヴァンギャルド建築は、現在も商用施設として使われていたり、
廃墟化しているところもあるが、
ここだけは美術館の一部として保存され公開されている。

じつは応募制で一日5人までが見学できるのだけれど、
開始と同時にチャレンジしたにも関わらず定員が埋まってしまい、
思い余って、
わたしは劇作家でイヴァン・レオニドフの演劇を書くからぜひ見せてほしい、
とメールを書いたところ、
「いいですよ。」と見学が許可された。

これが有名な外観。
写真集を持っていて、それを参考にして、
「外から見ても美しいが、中から見たほうがもっと美しい。
なにしろ自分のために建てた家だからね。」
というセリフを書いた。
しかし実際観てみると外観さえ思っていたのの何倍も美しかった。

中は、これはもう圧倒的だった。
トップの画像が、メインとなるアトリエだ。
以下のふたつは食堂とリビング。
リビングの窓が開けはなたれ、
メーリニコフ婦人が椅子でくつろぐ姿を外から撮った写真があるが、
これは圧倒的なセレブ感である。
共産主義国家でその地位を奪われた理由がこの自宅だけで
芯からわかる。
しかし皮肉なことに、この自宅故に死後もその仕事は後世に
語り継がれることになる。

このあといろんな場所で感心することになるのだけど、
こういうガイドツアーはどれも驚くほど丁寧だ。
今回の自邸ツアーも信じられないくらい丁寧だった。
でもロシア語なのでまったく、なにもわからなかった。
ガイドの方は、言葉もわからないのになんで来たの、
というカンジで少々怒っていた。
ごめんなさい。でもどうしても中に入らなくてはいけなかったんです。
だけど言葉がわからないから、たくさんの宝石を手から零した。
それもわかっています。

メーリニコフの建築は、どの建物も比較的綺麗に残っている。
塗りなおされ、修復され、現役の建物として使用されている場合が多い。

これは有名なルサコフクラブ。
革命後のソヴィエトは、労働者にも文化を、ということで、
労働者クラブがたくさん作られた。
ここで演劇が上演されたり、さまざまなイベントが開催された。

労働者クラブを作るというコンセプトと
アヴァンギャルド建築はおそらく相性がよかったのだろう。
現存するほとんどのアヴァンギャルド建築が、
元労働者クラブである。
ここは、いまはR18指定の劇場になっていた。
飛び出てる部分が客席であるはずだ。
でもロシアではそんなに過激じゃなくてもR指定がついているので、
ここでどんな演劇が行われているかはわからない。

これはルサコフクラブの近くにある靴工場のクラブ。

これがカウチェク工場付属クラブ。

これがスボボダ・クラブ。
ここまですべて労働者クラブである。

そしてこれが、メーリニコフの初期の作品。
バス・ガレージ。

少しまえまでロシア現代美術館のガレージという
すごく尖った現代アートを置く美術館だったらしいんだけど、
いまはロシアのユダヤ人迫害の歴史を展示する美術館になっていました。
ヨーロッパは大から小まで街のあちことに美術館とか博物館があります。

メーリニコフは、イヴァンとほぼ同時期1930年代半ばに
建築家としての地位をはく奪され
1972年に名誉回復されますが、1974年に亡くなっています。
若いころの、建築中の家の前で妻と撮影した、
人生の絶頂というような浮かれた写真と、
死の直前、自宅で撮られた孤独の粋を集めたような写真のコントラストが、
この物語の根底には流れています。

キーパーソンともいうべき役を文学座の浅野雅博さんが演じてくれます。

さて。初日から膨大です。
この旅、まだまだ続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「機械と音楽」への旅

2週間と3日。

滞在型制作を除けばいちばん長い期間の旅をした。
「機械と音楽」は、2005年が初演、2008年に再演されている。
その時は、まだまだ人生に余裕がない時期で、
つまり場所への旅をせずに脚本を書き、そして再演した。
それがずっと棘のように心に刺さっていた。

再再演を決めたのは、
いろいろな理由があるけど、なにより田島亮という俳優との出会いが大きい。
はじめて会ったとき、わたしの作品であれば、
イヴァン・レオニドフが合うんじゃないかな、と思った。
我儘で野心家でピュアな孤高の天才。
しかし、生涯でその才能に見合う建築を立てることができなかった。
そのときの彼はなかなか不遇な状況にいて、
励ます意味で、脚本をあげた。

その彼とここまで演劇をいっしょにやることになるとは、
その時のわたしはとうぜん知らない。

「機械と音楽」で復帰するという案も長くあったけど、
いろいろな紆余曲折があり、
ここまで待っての再演となった。
美術と建築になんの興味もないのが不安材料だったので、
建築関係や、それ以外も役に立ちそうな美術展には
なるべく誘うようにして、かなりのものをいっしょに観た。

そんななかで「サグラダ・ファミリア」のドキュメンタリを観た。
わたしは、モスクワに行かないと次の「機械と音楽」はやっちゃいけない、
と思っていたけど、ガウディの建築に激しく反応した彼は、
イヴァンをやる前に「サグラダ・ファミリア」を観たい、と言った。
行きたい場所はと聞かれると、
バルセロナに行ってガウディに触れたい、と答えていた20代の自分が蘇った。
行けるなんて考えたこともなかったけど、
いまなら行けるし、行っていいんだ。

日本での仕事がない時期で、
ちょっとした仕事の絡みもあり、行く時期を2019年の3月に定めた。
調べてみると、LCCの隆盛もあって、ヨーロッパ間の移動は、
信じられないくらい安価だった。
であれば、せっかくなので、人生で行くべき場所、
行かないといけないと思っていた場所に
できるだけたくさん行こうと思った。
そうなるとけっこう壮大な旅になるので、
必要なところ、興味のあるところだけ同行でもいいんじゃないの、
と提案したが、彼は、なんとかして全部に同行する、と言い、
そして実際に苦労して時間を空けた。

3年のあいだには、いっしょにいろいろな芝居を作った。
沖縄に行き、水俣に行き、東海村にも福島にも行った。
演劇のための旅は共有することが日常になっていたし、
それがserial numberの根幹を成すコンセプトでもある。
わたしたちにとって行くべき場所は知らないあいだに幾重にも重なっていた。
すべてに同行という選択肢を選んだ彼にいまはただ感謝する。
この体験すべてを伝えるなんて無理だし、ほんとうに大きな旅だった。
人生も後半に差し掛かるわたしにとってさえそうなのだから、
まだまだ若い彼の人生にとって、この旅があるのとないのとでは、
まったく意味合いが違ってくる。それくらいの旅だったと思う。

モスクワとバルセロナはひとくくりで言うとヨーロッパだけど、
点と点で結ぶとずいぶん遠い。
点と点のあいだで、行くべき場所を吟味した。
ロシア・アヴァンギャルド建築の殆どが集まるモスクワと、
15歳のイヴァンが革命を目撃したサンクトペテルブルグはマスト。
もちろん、ガウディのバルセロナもマスト。

チェルノブイリとアウシュビッツ、というふたつの場所は外せない、
と意見が一致した。

建築という観点で言えばベルリンも行くべきだろう。
バウハウス。モダニズム建築を語るとき、外せない場所だ。
わたしの憧れの町でもあり、演劇も観たかったし、
街も歩きたかった。

コルビジュのフランス、も考えたけれど、
わたしは実はパリは行ったことがある。
彼のためだけにもう一回パリに行きたいとは思えなかったので、
外した。

ロンドンでは演劇を観る。観たい。

そんなこんなで6か国7都市を巡る旅をすることになった。

モスクワ@ロシア→サンクトペテルブルグ@ロシア→キエフ@ウクライナ
→クラクフ@ポーランド→ベルリン@ドイツ→ロンドン@イギリス
→バルセロナ@スペイン

こんな我が儘な旅は、自分でプランニングするしかないので、
ツアーはさいしょから検討せず、すべて自分で手配した。
エアー、ホテル、ロシアはビザがいるし、
チェルノブイリはツアーに申し込まないと個人では行けない。
わたしは素人だし、海外旅行に慣れてもいない。
どこかしらで旅の挫折がありそうな危なっかしいツアーだが、
結論から言うと地下鉄を逆に一駅乗ってしまった、とかくらいしか
失敗談がないくらい順調な旅だった。

調べて書く作風ゆえに日頃からgoogleにはお世話になりっぱなしであるが、
わたしが海外に縁がなかった20年のあいだにインターネットは
思った以上に進化していた。
サイトはロシア語でもスペイン語でも自動翻訳してくれるし、
劇場のチケットは、席を選んでカード決済。
美術館もサグラダ・ファミリアの塔も、事前に全部準備できる。
ロシア・アヴァンギャルド研究家でさえとてもたいへんだったという
ロシアの旅も、ストリートビューまで駆使して場所を確認し、
モダニズム建築のマップを作っていったことが功を奏して、
観たいものはほとんど全部しかも無駄なく見ることができた。

いっこやるにも徹底的に調べてしまう性格なので、
ひとつひとつ準備していくのはほんとにたいへんだったけど、
ちょっと前ならここまでひとりで準備するのなんて不可能だったと思う。
インターネットはこういうことにこそ使われるべきだな、
と心底思った旅でもあった。

そして3月16日、わたしたちは機上のひととなった。
写真はモスクワ到着初日。モスクワの優美な地下鉄駅を
(しかし実際は、怖いくらいの音で電車が走っていて、こんなに
優美なかんじではない)
劇場に急ぎ、歩くわたし。
記憶が鮮やかなうちにこの旅のことを書いておきたい。