ベルリン・ユダヤ博物館

今回の旅は、どこも行ってよかった場所ばかりでしたが、
行けたら行く、くらいの予定にしていて、
行くことにしてほんとうによかったな、という場所がここです。

2000年にできた美術館で、
できる前から展示の方法が話題になっていたそうですが、
わたしは今回行くまでまったく知りませんでした。
もっともユダヤ博物館というのはヨーロッパのいろいろな場所にあります。
ロシアにもありましたし、クラクフにももちろんあります。
ドイツだけでもミュンヘン、フランクフルトと各所にあります。

プラハに行ったことがあるのですが、
ユダヤ人街はとても印象的でした。
敬虔で厳密な暮らしぶりが窺い知られ、
殺されたときの血痕を敢えて残した壁に、
殺されたユダヤ人たちの名前が書かれていました。

しかし、おそらくどことも位相の違う展示をしているのが
ここ、ベルリンのユダヤ博物館です。

手紙、写真などのメモリアルなものももちろん展示されています。
厳選され、ひとつひとつ丁寧な解説がついていて、
こころに響く展示なのですが、
なによりも、
迫害を、ホロコーストを、
現代美術の力で体感させる、という物凄い試みがなされています。

わたしはそんなコンセプトはまったく知らずにここに行ったのですが、
最初の部屋に入った瞬間に、それを理解しました。
そこは最低限の光しかなく、
ふたつの鏡が、逆方向に回っています。

わかりづらいと思いますが、
田島さんが立っている前にあるのが、
これがそこに置かれていた鏡と同じタイプのものです。
上と下が逆回転しているので、
わたしの上半身と下半身は、
一瞬出会い、また引きちぎられ、遠ざかっていきます。

これが暗渠というような空間に置かれていて、
そこに亡霊のように浮かんだ自分の姿が映ります。

ユダヤ人たちが、アウシュビッツまで連行されるときの、
言いようのない不安。
それを追体験しているのだ、と思いました。

廊下は、順路ではなく、
すべてが行き止まりになっています。
不安定に傾き、わたしたちは、
自分の存在の不確かさに眩暈のようなものさえ感じます。

これは、ベルリンに残った両親からイギリスに逃がした子供に宛てた手紙。
このご夫婦は、アウシュビッツで亡くなっています。

これがユダヤ人捕虜につけられたユダヤの星。

この展示の先に重い扉がひとつあります。
わたしたちが行ったときは、
そもそもそんなに人が多くはなかったので
(とは言え、平日の午後なのにたくさん人はいました)
特に人数制限はされていませんでしたが、
ハイシーズンは厳密に管理され、
ある一定数しかその先には行けないそうです。

重い扉の先は、
ホロコースト・タワーという部屋です。
天井のあたりに切り傷のように開けられた窓から
一筋の光が差し込むだけの部屋。
亡くなったたくさんの方々を悼むための場所であり、
ガス室に閉じ込められたその瞬間の闇を追体験するための
場所でもあります。
この圧倒的な心細さ。
孤独。
哀しみ。

展示というものに対しての概念を刷新する体験でした。

わたしは、その場所で、
ビルケナウのガス室を捕虜の方と同じ順路で歩いたとき以上の
当事者性を感じました。
そんなことができるなんて、考えたこともなかった。
それは、たとえば、田老町の震災遺構となった旅館の5階で、
その記録を撮ったのと同じ場所で見た津波の映像とか、
そういう体験は、それなりにはしていると思います。

しかし、そういう具体性はまったくなしに、
アートの力で、それを渡す。
ベルリンらしい、とてもハイセンスな空間の在り方と、
共存させている。

アートの力の臨界値を体験したと思います。

一家すべて虐殺の犠牲となった家族の写真。

これは、「亡命の庭」
たくさんの柱が規則正しく立っていますが、
どこにも平面はなく、傾いでいます。
亡命する、隠れて暮らす、家族が分裂させられる、
そいう不安定な体感を、表しているのだと思いました。

わたしは、演劇にもこういう力があるはずだ、と思いました。

あとから調べて知ったのですが、
この博物館をデザインした建築家は、
ダニエル・リベスキントというポーランド出身の建築家で、
家族がホロコーストの犠牲になっているそうです。
気づかなかったのですが、博物館には出入口がありません。
隣にある建物から深く長い階段を使って降りてくるしかない。

それを理解して降りて行ったわけではありませんが、
この階段の凄みは、全身で感じました。
歩いているだけで揺さぶられる建築。
それはわたしの建築という概念にはなかったものでした。
彼はこの建築で世界中に評価され、一躍有名になったとのことです。

じつはここに行こうと拘って提案してくれたのは田島さんです。
わたしは、省いてもいいかな、とちょっと思っていたので、
行くことができたことにほんとうに感謝しています。

博物館としても、現代アートとしても、
素晴らしい場所なので、
ベルリンに行って、時間が取れたらぜひおすすめしたいです。

バウハウス・デッサウ

バウハウス、と聞いて興奮するひとはある一定数いるはずです。
1919年にワイマールで設立、デッサウに移転、
最後は私立学校になってベルリンに行き、
ヒットラーからの圧力により、
1933年に解散しています。その間わずか14年。

「機械と音楽」を書くときに、
じつはバウハウスも最後まで候補としてありました。
でもヒットラーによって解散させられた、
だと、共産主義対国粋主義というわかりやすい構造に
嵌ってしまうな、と思って諦めました。

ロシア・アヴァンギャルドは志を同じくしたはずの
スターリンが圧政の主役です。
芸術家の政治への関与もずっと濃かった。
わたしの書こうとしていることにフィットする、と思いました。

バウハウスは工業デザインであるとか、
機能主義であるとか、
まさに現代の住宅の礎となった考え方を確立した場所です。
初期にはまさにイヴァンが学んだブフテマスから、
ワシリー・カンディンスキーが招かれて教鞭をとったりしていました。
東京藝術大学の美術館で行われたバウハウス展は
いま思ってもものすごく刺激的で充実した美術展でしたが、
カンディンスキーの教え子たちの、
カンディンスキーコピーの作品が大量に並んでいたのが印象的でした。
そっくりさんがたくさん並んでいても、
カンディンスキーのホンモノはすぐにわかるのが
不思議でした。
教えられる領域と、教えられない領域が、
芸術にはあるということだと思います。

さて、そんなバウハウスですが、
今回、デッサウに行くことはまったく予定に入ってませんでした。
というのも、ベルリンからの距離とかあまり調べず、
遠くて行けないと思い込んでいたからです。

あれ、と思ったのは空港からベルリン市内に向かう列車が、
デッサウ行きになっていたからです。
え。デッサウ、ってあのデッサウ?
調べてみるとわたしたちの宿泊先からなんと1時間半ほどです。
これは行くしかない、と思いました。
だって、デッサウだよ!!

というわけで喜びいさんでデッサウへと小旅行をしました。

ワイマールのほうはもうなにも残っていないそうですが、
デッサウは校舎がマルッとそのまま残っています。
そして、教授たちが住んだという家も残っているのです!!
(歓喜)

デッサウ駅です。
バウハウス・デッサウ校はここから徒歩10分ほど。
バウハウスの街はどうしたの、というくらいカッコいい住宅が多いです。

しかし、しかしですね。
運がいいとか悪いとか、人はときどき口にしますが、
バウハウスデッサウ校、修繕工事中でした。
とはいえ、見学はちゃんとできました。
すっごく活舌が悪いですが、日本語ガイドも借りられます。

いやー。それにしても。
美しいですね。
どこを撮っても、なにを撮っても絵になります。

トップ画像が超有名な階段ホール。
真ん中あたりの窓が少し太い鉄骨になっているのがわかりますか?
ここは、ギコギコ開けることができます。
開けてひとしきりジーンとしました。
わたし、バウハウスに触れてる!!

登る側から見てもカッコいい。

やっぱりねー。トイレ、撮っちゃうよね。
トイレットペーパーホルダーも水流すボタンも、扉も、
シンプルかつ超カッコいい。
わたし、執拗にトイレで写真撮りましたからね。笑。

これは、手を洗うところ。
みて。ハンドル。みて。
ドイツ機能美。極まる。
ドイツ機能美の向こう側に
機能美と一体化した田島さん。
絵になる。笑。

有名なペンダントライト。

外観。

どの角度からでも。

ぬかりなさすぎ。
(しつこい)
そしてわたしがぬかりすぎ。笑。

このあと、教授たちが住んだというマイスターハウス(官舎ですね)に行きました。
ここも修繕中で、美しい外観にシートが掛かっちゃってます。

これはかろうじてシートが掛かってなかった一棟。

こんなカンジだよん、っていう模型。

しかし中は見ることができます。
できますが。
最初に入ったところでは、チケットがないと入れない!!
と断られました。
しかもどこで買えるかなんて教えてくれない。
それがドイツ流。

で、チケット売ってる棟へ。

棟ごとに、チャイムならしてね、とか、
ノックしてね、とやり方も気まま。

しかしですねー。
なかは凄かったです。
こんなカッコいい家、落ちつかないよ、って
くらい抜かりがなさすぎます。

なんとなく撮るだけで絵になりすぎる。

カッコいい。

建築家的な気持ちを味わう田島氏。

水回りはどうしても気になる。

執拗に撮ってしまうトイレ。

どこまでいってもカッコいいしかでてきません。

まとまらない。

さすがにトイレ写真で終わるわけにもいかないので、
バウハウスのカッコよすぎるカフェで
信じられないくらい不味いパスタを食べた田島氏で
今日はお別れします。

みなさま、バウハウスデッサウに行き、
カフェでごはん食べるならバケットサンドがオススメです。
超絶、パンが美味しい。です。よ!

こんなただバウハウス大好きみたいなブログ、
読んでくれてありがとうございます。
ベルリン編、あと一日だけ続きます。

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ベルリン・アートに触れる

ここまで来たらワルシャワも行っておきたい、
という気持ちもありましたが、
建築の旅であることだし、と考えて、
ベルリンに向かう予定にしていました。

ベルリンは、迫害した側であるドイツの街です。
昨日、アウシュビッツを歩いたその靴で、
ベルリンの街を歩く。

ベルリンはヨーロッパの中でも
性的少数者の権利が認められている街だそうです。

ナチス・ドイツは性的少数者を
ピンク・トライアングルと言って、
黄色のユダヤの星をつけられたユダヤ人以下の
劣性人種として迫害しました。
アウシュヴィッツの写真のなかには、
たくさんのピンクトライアングルによって性的指向を
後世まで告白させられているひとたちの写真が
たくさん残っています。

しかし、現在のベルリンは、
聞いていた通りの、
セクシャリティフリーの国でした。
日曜日ということもあって、
犬の散歩をしているカップルがそちこちにいたのですが、
男女、男性同士、女性同士がほぼ同数なのでは、
と思ってしまうくらい、
フツウに街を歩いていました。
権利が認められてますから、
カップルであることを隠していない。
そういうなかを歩くのは、とても幸せな気持ちでした。

ヨーロッパを旅していると人種の違いというのを
肌で感じます。
もちろん人それぞれ個別の個性もあるのですが、
国民性ってあるんだな、って思います。
ドイツは意思が超ハッキリしてます。
愛想もありません。
まちがったことをしてると、外国人でも容赦なく注意されます。
でも、それをちゃんとやりさえすれば、
引きずるということもないカンジです。

ベルリンは電車の改札という概念がありません。
→ウィーンもそうでした。
つまりやる気になればタダで乗れちゃう。
でもたまに係員が回ってきて、見つかったら
超高い罰金を払う必要があるそうです。
そしてそれは外人でルールがわからなかった、
とかまったく聞いてもらえないのだとか。
なのでちゃんと切符買ったほうがいいですよ、
と言いながら、Sバーンの切符の買い方が難しくて
買えずに立ちすくんでいるツーリストをたくさん見ました。
英語表記にもできるんですが、
なぜかひとつ進むとドイツ語に戻っちゃう。
そして打刻というのをしないと、切符持ってても
罰金になる。
ここ、ほんと要注意です。
てゆーか、そんなに厳しいならもう少しわかりやすくしてほしい。
インフォメーションのマダムは、
プラットホームはどこかは教えてくれたけど、
目の前にある自動販売機での切符の買い方は、
「担当外」とまったく取り合ってくれなかったし。笑。

でもその割り切り方が、わりと心地いい街でした。
なによりなにもかもほんとうにセンスがいい。
芸術に愛された特別な街だと思います。

ベルリンではいくつかの美術館に行きました。
ひとつめは、
ケーテ・コルビッツの小さな美術館です。
わたしはケーテを、ケーテの人生も含めて
尊敬していて、
沖縄の佐喜眞美術館で
作品の実物を観ることできたときすごく感動しましたが、
ついにここで彼女に会えて、
それはすごく特別な時間でした。

彼女の作品は版画と彫刻が主です。
そのどちらもに、
抱きかかえる、というかたちがとても多くあります。

彼女は第一次世界大戦で息子ペーターを亡くし、
そして第二次世界大戦で息子と同じ名を持つ孫を亡くしています。
母としての深い悲しみ故でしょう。
死者を抱くというかたちとしてわたしたちの前に
たちあらわれます。
しかし、それはただのかなしみではなく、
大きな暖かいもので、
自分のいのちを抱きしめてもらっているような
そういうおおきな愛でもあるのです。

そんな彼女もナチス・ドイツから迫害されたひとりでもあります。
ヒットラーは芸術を愛しましたが、
ある種の芸術について、「退廃芸術」と断じ迫害しました。
死をモチーフとするケーテもまたその対象となりました。
作風の転換を求められても応じず、
ついには製作を止められましたが、
隠れて作品製作を続け、
第二次大戦の終焉を待たず亡くなっています。

ベルリンの貧民街に住み、
貧困やそれに伴う苦しみを作品にしたケーテ。
リスペクトする彼女の人生に励まされながら、
わたしはこれからも作品を創るのだと思います。

そのあと行ったバウハウス博物館は、
なんとなんとの改修中。
そのためにここまで来たって言っても過言じゃないのに
どーしてー、と思いましたが、
それはひとつの始まりでもありました。
そのことについては、またべつで書きます。

ベルリンの壁はもちろん行きました。
かの有名なイースト・サイド・ギャラリー。

残された壁がストリートアーティストたちが描いた絵で、
延々と彩られています。
ベルリンの壁が崩壊した日のことを思いだします。
それは、ほんとうにとつぜんのできごとでした。
西ドイツ側からでいいから、ベルリンの壁をいつか
見なくては、と思っていた少女時代。
いまは、どこが元西ドイツでどこが元東ドイツかも、
地図でみないと判然としません。

これが有名なブレジネフのキス。
ブレジネフ書記長は、熱いキスで外交することで有名でした。
この絵のお相手は、東ドイツのホーネッカー評議会議長です。
とうぜんですが人だかりで、
みんな順番に写真撮ってましたけど、
やっぱり行くとどうしたって撮っちゃうよね。

世界最大のLGBTミュージアムがあるというので、
そこにも行きました。
写真いいのがないので載せませんが
(とうぜんですけどセクシャルなものが多いので
それだけ載せるとただ扇情的なだけになっちゃうから。
そしてわりと扇情的なものが好きなので、
どうしてもそういうのでシャッター切りがち)
当事者の方、当事者ではないと思われるカップル。
たくさん来ていました。
ヨーロッパは街角にひとつというかんじで
小さい美術館や博物館がたくさんあるんですが、
ひとつひとつちゃんとコンセプトがあるんですね。
そのひとつのかたちを見ました。

そしてハンブルク駅現代美術館。
モダニズムアートの殿堂です。

元は駅舎だったところを美術館にしていますが、
入口にこのオブジェがあって、
ここは現代アートがあるところだぜ、と主張しています。

いやー。ここは興奮でした。
ヨーゼフ・ボイス、アンディ・ウォーホル、
そして、アンゼルム・キーファー。
青春時代ですよ。わたしの青春時代。

トップの画像がヨーゼフ・ボイスの大作です。
ヨーゼフ・ボイスとか、
ナムジュンパイクとか、
ローリー・アンダーソンとか、
パフォーマンス、行ったなー。
あの頃のわたし、なにかわかってたのかなー。

これもアートか・・・と見入る田島氏。
(元バスケ部)

いいよね。こういうの。
コンテンポラリーってカンジで。
年配の方がコンテンポラリーな美術を見て、
コンテンポラリーな演劇作品を観ている。
そういう街でもあります。
アートの浸透率が高いです。

こういうのなんかは、日本の広告とかに
もろ影響与えてますよね。

そして、わたしにとって特別な作品にも出会えました。
アンゼルム・キーファー。
わたしと美術の杉山至さんの美打ちでかなりの回数
名前が出てくる現代美術家です。
だいたい、あのころの西武美術館はすごかったよね。
アンゼルム・キーファー展、
伝説だよね。衝撃だったよね。
みたいな話です。
正直あまり身のある話ではないのですが、でもしちゃう。
そのくらい、ほんとに衝撃的だったんです。
そのアンゼルム・キーファーがあるというので探しました。
ものすごく広いので、この美術館は、
なかなか見つけられず、
美術館のひとに聞いても警備のひとだったのかわからず、
そしたらひとりのドイツ紳士が、
キーファー!と近づいてきました。
君はキーファーが観たいのかい。
キーファーは下の階だよ。
ひとつしかない。ひとつしかないから見逃しちゃダメだよ。
そういって携帯で撮った写真を見せてくれました。
先に、携帯の、写真で観ちゃった。
でも彼的には、ナゾの東洋人がキーファーを探していたのが、
嬉しかったんだと思います。
入口までいっしょに来てくれて、
あそこだよ、と教えてくれました。

それで無事会うことができたキーファー。

やっぱり特別だ、と思いました。

思わず長くなりました。
読んでくれてありがとうございます。
「機械と音楽」への旅、まだまだ続きます。
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アウシュビッツへの旅

ずっと長くホロコーストということについて考えてきました。
なぜホロコーストということが起こるのか。
ひとはなぜそんなことができるのか。

アウシュビッツはずっと行かなければ、と思っていた場所です。
そのタイミングがこの時期と重なりました。
いつも思うんですが、場所に行けばすぐにわかることが、
まことしやかな嘘で歪められるのはどうしてでしょうか。
辺野古の座り込みをしているひとたちはお金をもらっているそうですが、
わたしはそんなのは見たことないですし、
座り込んで運ばれてもお金なんて貰ったことはもちろんない。
そもそもどう考えてもそんなお金はどこにもありません。
皆、手弁当。
警備会社のほうはだいぶ、お金をもらっていたみたいですけどね。
しかもそれはピンハネされて現場のひとにはいかなかったみたいですけどね。
座り込んでいるひとたちは、
せめてウチナンチューの警備会社に発注してほしいよ、
と思いやりを見せていました。

アウシュビッツは、年間200万人超のひとたちが訪れる場所です。
しかしだいたいの場合、
バス等のツアーか自家用車で行くのではないでしょうか。
わたしたちはクラクフから自力で路線バスを使っていく手段を使いました。
そういうひとは、たぶんとても少ないですが、
早朝出発し、霧のかかる道を走っていると、
運ばれていったたくさんのひとの情景を
追いかけているような心地になりました。

日本語ツアーもあるんですが、
うまく見つけることができず、
わたしたちは英語ツアーに参加しました。
コースは3時間と6時間がありますが、
行ける機会があったら迷わず6時間にするべきだと思います。
というのも、アウシュビッツは第一から第三まであり、
第三はもうなくなっていて、
今見ることができるのは第一と第二。
3時間だとおそらく第一しか見る時間がありません。
もしくはすごく駆け足か。
しかし第二収容所、ビルケナウを体験しないと、
行った意味がない、と言えるとわたしは思いました。
ガイドさんはとても丁寧で、しかも個別性が尊重されていて、
それぞれの道筋を持っています。
なので、6時間でもまったく時間は持て余しません。

わたしたちのガイドさんはたぶんポーランドの方でしたが、
巻き舌でそのうえとても早口だったので、
わたしの能力ではかなりの部分聞き逃してしまいました。
それでも彼女と歩くアウシュビッツは特別な体験でした。
怒り、悲しみ、そしてものすごく勉強してらっしゃることが、
その情報量から伝わってきます。
わたしのアウシュビッツは、
彼女の眼差しを通して観たアウシュビッツでした。
出会うガイドさんによって一期一会のこの場所がある。
そんなふうに思いました。

ここが第一収容所アウシュビッツ。
ほんとうは、オシフィエンチムという地名です。
ドイツ人には、この言葉がアウシュビッツと聞こえたので、
この名前になってしまったということです。
このくらいの人数がひとりのガイドさんについて回ります。
ガイドツアーは現地でも申し込めますが、
予約しておくと待ち時間がありません。
ハイシーズンは予約なしだと
ガイドツアーはできないかもしれませんので、予約をお勧めします。
公式サイトから申し込めますが、
そうなるとわたしたちのように自力で博物館の入口まで
たどりつかないとなりません。
割高ですがクラクフやワルシャワからもツアーが出ているらしいので、
利用するのも手だと思います。

これはとても有名ですね。
義足や義手、松葉づえ。
連行されても労働ができないと判断されたひとは、
そのまま家族からも引き離され、
処刑されました。
しかし、こういったものは利用価値があったので、
引きはがされるわけです。

女性の髪の毛がうずたかく積まれた展示もあります。
鬘として利用するために、長い髪を切られるのです。
ご遺体の一部ということでここだけは撮影禁止です。
知ってはいても、
やはりどうにもならない感情に浸されます。

これは食器たち。
すぐに帰るつもりですからこういったものをたくさん
持ってきていました。
女性だからでしょうか。
生活の器物には胸が潰れる思いがします。

これは鞄。

靴の展示を見る田島さん。

こういったもののなかで価値があるものを貯蔵する倉庫を
カナダ倉庫と言ったそうです。
ガイドさんの説明には、
何度もカナダという言葉が出てくるので、
なんだろうと途中で調べましたが、
なんとなくお金持ちのイメージがあったから、
捕虜たちから奪ったものを保管した場所をそう呼んだそうです。
その発想が残酷すぎます。

これは殺された人たちを記録してある本。
その質量、消化しきれないほどの多さを、
触り体感できるようになっています。

ここまでで3時間。軽く食事をして、
(売店もレストランもあります)
シャトルバスでビルケナウに行きます。

これは有名な引き込み線。
ここに到着するたくさんの捕虜の方たちの姿は、
いろいろな映画で観ることができます。
わたしもアウシュビッツ関連の映画は相当数見ているので、
自分の記憶と一体化しており、
なんともいえない気持ちになりました。

ここか、と。

ビルケナウの奥地に小さな建物があります。
ここは、
着替えという名目で、金目の服を奪われ、
シャワーを浴びると言われて、
ガスで殺され、
焼却された場所です。
わたしたちは、その捕虜の方が辿った順番で歩きます。
とても機能的でとても整然としています。
効率的で機能的なドイツらしい構造です。
その構造を捕虜として味わったとき、
スッと真ん中が冷える感覚がありました。
殺したひとたちの意思の強さが伝わってきた。
そして、殺されたひとたちは、
死の瞬間まで、しらなかった。
自分がここで死ぬということを。

ここが焼却炉。

ここがガス室のあとです。

最後の部屋に捕虜の方たちが残した家族や結婚式の写真が
飾られていました。

これでも虐殺も強制連行もなかったと言うのでしょうか。
見てから言ってください。
見ても、言うのかもしれませんが。

チェルノブイリもそうですが、
ひとの言葉がなければ、
わたしたちはここでなにがあったかを知ることはできません。
そこをチェルノブイリにするのは、
そこをアウシュビッツ・ビルケナウにするのは、
わたしたちの想像力と、知識です。

たくさんの文学、たくさんの映画、
演劇、写真。記憶。記憶。記憶。

心を尽くして残してくれているこの場所を。
穢れの記憶の場所を、未来の時間のために
残してくれているのです。
これ以上、汚してどうする。
遠い日本から、傷つきもしない場所から。
許せない。
そう思います。

国立チェルノブイリ博物館

翌日は国立チェルノブイリ博物館に行きました。
そんなに大きな博物館ではありませんが、
日本語のオーディオガイドがあり、
ひとつひとつの展示に丁寧な説明がつきます。
なので行くなら2時間~3時間かけたほうがいいと思います。

プラクティカルな記録ももちろんたくさんあるのですが、
個人のライフヒストリーに関わるメモリアルな展示が中心です。
館長さんのインタビューを読んだことがありますが、
エモーショナルになることを敢えて避けない、
と言ってらっしゃいました。

チェルノブイリに関わったたくさんの方の写真があり、
技術者、消防士、軍人等、それぞれの立場からの
チェルノブイリの記録を見ることができます。
彼らの家族写真、残した文字、小物、
そういったものが、とにかくたくさん展示されていました。
写真に赤いマークがついているのが亡くなった方です。
ひとりひとりの人生の話を聞きながら展示を巡ります。

すべてを丁寧に省かず見るのには、
かなり精神力が要ります。
ひとつは、ひとりひとりが生きていたひとなんだ、
というあたりまえの実感が押し寄せてくること。
それ以上に、この場所を作り、守り、
伝えようとすることの気迫に、
見る側も応える必要があるからなんだと思います。

昨日行ったときは銀の金属に覆われていた4号炉です。

最後の展示室は原子炉内部を模しています。
わたしたちは浜岡原発でも
原寸大の原子炉の模型を体験していますが、
そのときとはまったく違った感覚を味わいました。

宗教的なアイコンも同時に飾られていたりして、
ここが祈りの場であることが明確にわかります。

こどもたちが、奥に車座になっているのが見えるでしょうか。
彼らは先生の解説でものすごく丁寧に展示を見てきたあとです。
チェルノブイリ事故のドキュメンタリを見ています。
子供にはわからないから、などという曖昧な姿勢は
ここにはありません。
死んだひとたちがいることも、
いまもなお後遺症に苦しむ人たちがあることも、
原子力というのがとてもリスクのある手段だということも、
しっかりと伝えられています。
隠すことがなにもない。

天井の光は、世界各地で今もなお稼働する原発なのだそうです。
あのあたりが日本かな、という場所が、
煌々と光を集めていました。

この国旗は、この博物館を支援してくれた国の旗だそうです。
そのなかで、とくに日本への感謝が厚く語られていました。

わたしたちは、東海村に行き、浜岡にも行っているので、
2011年を経てなお、
原子力は明るい未来エネルギーなんだ、という展示を
たくさん見てきました。
そんなわたしたちにとって、ここの展示のあり方は、
まさに、打ちのめされるものでした。

リスクを、罪を、隠さないという姿勢を、
それを若い世代が引き継いでいるということを、
引き継ぐ努力を惜しんでいないということを、
目の当たりにして、
しばらく立ち上がれませんでした。

恥ずかしい。ただ。恥ずかしい。

日本もたとえば原爆資料館などはそういう作りになっていますが、
外国からされた厄災と、
自身の国の産業が引き起こした事故では位相が違う話です。

このチェルノブイリ博物館は入場料が約200円。
国立とは言え国からは働くひとの人件費しか出ていないけれど、
寄付を募り、安価であることを自らに課しています。

驚くべきことに、ここはキエフの若者たちのデートスポットあり、
リピーターも多いということです。
チェルノブイリツアーもご夫婦や恋人同士での参加が多かったですし、
ここでも若いカップルが身を寄せて展示を見る姿がありました。
生きることを、生きるスタンスを、
シェアしているんだな、と思います。

福島にはいま廃炉博物館が計画されていると聞いたことがあります。
嘘のない、率直なものになるよう祈るしかありません。