「マネーショート」という映画を見ました。
これは、本格的すぎるほど本格的な金融映画です。
リーマンショックの引き金となったサブプライムローンの破綻、
その逆目を張って儲けた金融マンたちの物語で、
途中途中で的確な説明シーンがあるものの、
おそらくロング・ポジションとショート・ポジションの正確な意味、
リーマン・ショックの全容、
その引き金となったサブプライムローンとその破綻の背景、
などを知らないとまったく楽しめない映画です。
特に、4組(チームだったりひとりだったり)の金融マンの物語が、
並列かつ目まぐるしく変わり、
どの人の背景もすごくちゃんと書き込まれ、
それぞれの金融の手法や検証方法も違う。
その丁寧さとリアルさたるや、凄みさえ感じるほどです。
わたしは金融を演劇にしたことがあるので、
最初から最後まで、淀みなく楽しみ、感動しました。
なにが素晴らしいって、
金融マンたちが、逆目を張って大儲けして、
それでハッピーというのではなくて、
金融破綻が市民を損ねるものだということ、
そしてその中で勝った金融マンたちも複雑な思いを生きたことまで、
丁寧に描いていることです。
ああ。面白かった。面白かった。
と何度も言ってしまうけど、
まったくわからなかったという意見もネット上に
散見しています。とうぜんといえばとうぜんですが。
わたしも、15年前にこの映画を見ても、
まったく意味がわからなかったのではないか、と思います。
しかしこの作品はアメリカでアカデミー作品賞の対象と
なっています。
日本ではお金は貯蓄しなさい、という教育を受ける人が
多いと思いますが、
海外では投資に関する教育を親から受けると聞いたことがあります。
そういう背景の違いは大きいのかもしれません。
また、リーマンショックの際の報道があり、
リーマンショックの基礎的な知識があるのが当然というところで、
作られているのでしょう。
それで、映画が面白かった、という単純なことではなく、
わかる、わからない、ということに関しての、
深い溝について、
日頃、そのことで常に悩んでいる劇作家として、
今後どうしていったらいいのかなー、と考え込んでしまったのでした。
そのあたりを解決するために、劇中でおもしろく説明する、
という方法を編み出し、
あの手この手を使って考えてきました。
それは、どんなに内容について知らないお客さまでも
楽しむ権利があるし、そういう人に理解できないと、
やる意味もないよねと思うから、というのがひとつ。
もうひとつは、たとえば、今回の「マネーショート」の場合、
金融の深いところに入り込まずに、
とにかく逆目に張って儲けたんだ、
というところをザクッと描いたほうが実はわかりやすい。
しかし、そうなると、高度に発達した金融工学が、
金融の本来の目的を忘れ、マネーゲームに走った結果、
金融の破綻を生んだという現代社会の深部に届く作品にはならない。
そこに照準を合わせてしっかり描き成功させている
監督や俳優陣に驚きます。
わたしも深く事象に切り込むために各論に拘りたいし、
その各論をディティールまで仔細に描くために、
物語(演劇)としての巧さや完成度を犠牲にしても説明を入れ込む必要がある、
ということ。
しかし、「マネーショート」を素晴らしいと思うのは、
わたしがこの事象を深く理解しているからであって、
映画の評価としては日本ではそれほど高くないのが実情です。
内容を理解したうえでの高度な議論はほとんどなされていなくて、
ほとんどが「わからないからつまらない」
「おもしろいんだろうけど難しくてわたしにはわからなかった」
もしくは、
「わからなかったけど、おもしろかった」
という論のなかに押し込まれています。
(もちろんすべてではないですよ)
わたしも最初に書いたように、
前ならまったくこの映画が理解できなかったと思うので、
だから日本人はダメなんだ、とか偉そうに言うつもりはありません。
でもたぶん「わたしには難しい」ことのなかにたくさんの真実が、
いま隠されていて、
わたしたちの生活を少しづつ浸食し、
犯しているような気がします。
経済も政治も。わたしたちの生活も。
同じ箱のなかにはいっていて、相互に関わり合い、
けして無関係ではいられないというのに。
おそらくはわたしの「わからない」のなかにも、
おそろしい怪物は潜んでいる。
演劇をひとつ作るたび、その怪物との対峙を迫られることも多いです。
でも、だからこそ、アウトプットの仕方に悩みます。
これから、どういうふうに作品を創っていこうかな、と、
最近考えていることの、ヒントになるというより、
さらに鬱々とする体験になりましたが、
観てよかったです。
わたしが金融のシステムについて説明しながら、
「マネーショート」観る会とかやればいいのかなあ。
引き続き考えていこうと思います。